社会的意義という呪縛
「社会的意義の高い仕事がしたい」
「社会課題の解決に携わりたい」
のようなフレーズを聞いたり使ったりしたことはないでしょうか?
私は数年前から医療業界の会社に勤めているせいかよく聞きますし、言っていました。
ただ最近は「"社会課題" とはなんだろう?社会的意義の高い低いってどうやって決まるんだろう?」などを考えるようになりました。結構こういったフレーズは多くの人がなんとなく「医療・環境問題など = 社会的意義の高い」と捉えていて、知らず知らずの内に囚われているのではないかと考えています。
ので私自身がこれを考え直してみようと思ったきっかけと、もし「社会的意義の高さ」に囚われている人がいましたら一回自分の好きなように行動してみるのもアリかも、とうっすら思えるようなことを書いていければ思いこの記事をしたためております。
病気の自分を救ってくれたのはエンタメだった
考えが変わるようになったきっかけとして「病気の時に映画・ゲーム・漫画などのエンタメに心がとても救われた」経験があります。
私は大体2年くらい前に話題沸騰中のコロナに罹り、後遺症が長引いてしまい半年くらいほぼ家から出られない、フルタイムの仕事に復帰するまで9ヶ月くらい時間を要してしまった時期がありました。
今でこそすっかり元気な生活を送れておりますが、最初の4ヶ月くらいは回復の兆しがほぼなく「いつか良くなるんだろうか、また元気に外を自由に歩ける日が来るんだろうか、一生このままなんだろうか」と不安な日々が続いていました。
そんな時に自分を一番助けれてくれたのは医療ではなく人との触れ合いだったり、あとはエンタメでした。
(※「"社会的意義の高い"と思われているもの、との対比で医療を上げていますが、医療は意味ないとか言うつもりは毛頭なく、たまたまこの時はコロナの後遺症という治療法が確立していない病気に対して心のケアとしてエンタメがより自分の救いになったという話です)
この時は外に出て何かをするということもほとんどできなかったので、映画や漫画などのエンタメ作品とたくさん触れ合ったのですが、たくさん笑ってその間は病気のことを忘れられたり、あとは自分と似たように病気で人生がままならなくなってしまった人のエピソードを見て泣いたり勇気をもらったり、もしこれらがなかったらメンタル的に落ち込み続けてしまい、病気はもっと長期に、あるいはずっと治らなかった可能性もあるのではないかと感じています。
この体験を後から振り返ったときに「エンタメも、めちゃくちゃ社会的意義あるやん…!!」と思いました。
これはエンタメに携わっている方からしたらイラッとくる考えかとは思いますが、昔転職活動などをしている時に、転職軸を聞かれた時に「どちらかというと社会の課題を解決しているものに携わりたい、なのでC向けのエンタメとかはちょっと違うかも」などと答えていたことがありましたがなんとも狭い見識だったなと今では思います。
何が課題か、何が社会にとって大きな課題か、それは世の中の状況によって常に変わりゆくものですし、また、課題を抱えている人の数が例え少なくても、ミクロな個々人にとって大きな課題を解くことも大変尊いものだと思います。
おそらく世間一般で呼ばれる "社会課題" は「ふんわりみんなの中でこれは人類共通の課題なんじゃないか?と思われているもの - 医療、環境問題など」という捉え方が実態としては正しいのではなかろうかと思います。
もちろん現実として人類全体として大事な課題の優劣はあるので、そういったものに適切に投資されていく社会になるといいな、とは思うのですが、個人の人生がそこに縛られ過ぎる必要はないでしょう。
なので、本当に社会的意義が高ければ高いほど燃える!という価値観でもなければ、ある事業が「社会課題である・ない」だったり「社会的意義の高い・低い」を考えることはあまり意味がないことなのではと思うようになりました。
社会課題を解決したくなるのは代償行為かもしれない
という訳で自分の価値観が変わった話を語って参りましたが、もう一つ自分の「社会的意義の高い医療にそこまで主体的に興味を持てない自分はクズなのでは…」とぼんやり思っていた自分の考えを揺さぶってくれたツイートを勝手にご紹介しようと思います。
これを読んだ時「正に俺や〜〜〜!」と思いました。
私は医療業界の会社に転職したものの、余暇の時間などに医療に関する勉強をしない・モチベーションが湧かない自分に気付いて「俺が医療業界に勤め出したのは周りに自分は社会的意義の高いことに携わってるよアピをするためだったのかもしれない…」「こんな社会的意義の高い活動に興味を持てない自分はクズなのかもしれない…」など謎の自己嫌悪感を抱えていました。
なので上記ツイートを読み、自分の状態に自覚的になってフッと開き直ることができました(これはこれでちょっと浅はか感ありますが)。
なので最近は「次転職するとしたら自分が心から好きなこと思いっきりやれるところがいいな〜、猫とかゲームとか。」などと発言するようになって、もしかしたら知人からは「こいつ言ってること一貫性なさ過ぎないか?」と思われているかもしれないのですが、まあそういうことです。
ちなみに「社会的意義の高いことがしたいです!」という言葉の根っこが利己的であること自体には自分は何も否定的な感情は持っていないです。
やらない善よりやる偽善とはよく言ったもので、シニカルに構えているより現実世界に影響を起こしていることは尊いと思います。
ただ、本人が自分を騙し、本当には望んではいないことに時間を使い続けてしまっている場合はよろしくないかなと思います。
先ほどあげた自分の状態もそうなんですが、一度振りかざした手を降ろすのが難しいといいますか、ここで辞めちゃうような自分はクズなんじゃないか…みたいな気持ちがよぎります。これがタイトルにつけた「社会的意義という呪縛」です。
ちょっと自分以外に人とこういった価値観について話したことがないので、他にも似た心境の方がたくさんいるのかは分かりません。ただなんとなくですがそれなりにいそうだなとは感じています。もしこれを読んでいる方も心当たりがあれば一度立ち止まって考えてみてもいいのかなと思います。
おわりに
という訳で自分の中にあった「社会的意義という呪縛」について書いてみました。正直自分以外にこういう思いを抱えている人がどれくらいいるのかは分からないのですが(あんま人に話しづらいことだしね)、割と現代人、特に若い人にはありがちな感覚なのでは、という気がしています。
利他の精神も素晴らしいのですが、知らず知らずの内に自己犠牲を伴ってしまうのはあまり望ましくありません。
とりあえず自分は「自分に素直になる」ということも今後の自分のキャリアの意思決定などをしていく際には重要視していこうと思います。
それでは最後までお読みいただきありがとうございました👍
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?