アートマーケット 課題レポート

2023/12/01(大学の講義「現代アート論」 課題レポート)

映画『アートのお値段』を踏まえて。
この映画の主題は現代美術の資本主義的価値だ。要約すれば「投資商品としての現代美術は、画家が生きていることでより価値変動が不確定であるため期待値が高く、高騰しやすい。その環境(アートマーケット)に巻き込まれ/飲み込まれ/取り憑かれている人々の主観と魅惑と混乱の状況」を切り取っている映像だが、そこには上演芸術が登場しない。
なぜ、上演芸術はアートマーケットに乗らないのか。上演芸術はみてから買うのではなく、買ってからみる。みてないのに買う。また、観劇後の払い戻しはないし、観劇後に売却することもできない。造形芸術は美術館やギャラリーで「味見」し、気に入れば購入し「持ち帰る」という仕組みだが、上演芸術は「味見」も「持ち帰る」もできない。マーケットに乗らないだけでなく、パンフレットに乗せられない。近代演劇の形式には不利な条件だが、映画を見る限りマーケットは占有性、上昇期待値、売却能力が必要条件とされていた。マーケットの住民は味見を求めていない。パンフレットから見るのはキャリアとコンセプトだけだ。キャリアは上昇期待値を測るためだ。必要条件を満たした上で、上演をみる必要がないほど紹介文だけで価値を想像させた作品は売れる。それを達成する上演芸術、つまり上演の必要のない上演芸術を考える。
まず思いつくのは「人身売買」だ。「私」という一人芝居を「演劇」として販売し上演は私の死後も継続して終了しないものとする。「私」という演劇のチケットを保有しているものは、演出家になる権利が与えられ、戯曲上に書かれた演劇作品「私」との約束さえ守れば何をすることも許される。その約束には警察などの社会制度に介入されないために現存する一通りの刑法を”破らせて”はならないという筋書きが書かれており、死後の肉体についても言及している。演劇として始まった私の身体という物体は死後、美術のように売買を繰り返すことになる。人生よりもっと先まで作品として販売する。
人身売買と演劇の組み合わせといえばシェイクスピアの『ヴェニスの商人』だが、その上演中に、実際に自分の心臓の横の肉1ポンドの証書を販売し、その証書を転売することを許可する、といった作品も売れる。作品ではなく所有権に関心があることがわかるだろう。
また、『神話』という日記を一冊販売し所有者に「名前」を書き込む権利を与える。書き込まれた名前は永遠にその本に記され残る「本による上演」もできる。円周率を好きな文字数だけ書き込めるようにしてもいい。
上記の作品案はどれも購入者に役割を与え、演出家、俳優、劇作家という上演中のクレジットを販売している構造にある。舞台芸術は上演が終わってしまえば残骸は現代美術化するが、上演が永久、または半永久的に終わらなければ、舞台芸術としての売買も安定する。上演と呼んでいるが上演は行われず、またすでに行われている。どれも購入者に作品への介入を要望するが、購入者らはその上昇期待値に掛けて購入するためその責務を退けない。皮肉にも演劇史上最も従順な観客はアートの価値を知らぬアートコレクターかもしれない。
上演芸術とは環境を対象とするものだ。アートマーケットが人々を巻き込み/飲み込み/取り憑いているなら、上演芸術はアートマーケットを巻き込み/飲み込み/取り憑いていくことで、人々にすら取り憑くことができる。
豊岡は何ができるか。世界有数の演劇の聖地となるには、アートマーケットと上演芸術の関係について考えなければならない。豊岡からの働きかけは一つ。アートマーケットを作ることだ。アートマーケットに出品される作品や人々は芸術にとって不健全だが、先に述べたようにアートマーケットそのものは社会風刺の効いた素晴らしい上演芸術だ。上演芸術こそアートマーケットを手腕に納める意味がある。また、マーケット内の不健全に悪性はない。上演芸術を復権させるために狂ったアートマーケットを豊岡で開こうではないか。造形芸術と異なるこのマーケットの存在意義は、上演芸術の形式化/現代化を促進することだ。演劇を形式化/現代化するために稽古場と再現の輪廻から解脱し、錆びた劇場を脱出し、これまでの演劇に見切りをつけた避難所としての豊岡の展望として、アートマーケットを設けてオアシスにしよう。題して『パフォーミングアーツマーケット』は、演劇よりも絵画よりも創作に時間をかけることに意味がなく、技術力や演技力などの芸術風なだけの価値っぽいものを持ち込むことができない。作品が俳優に依存している内は出品することすら難しい構造で、演劇を用意された身体から解放し、観客の生体にのみ依存させる。
観劇「する」ことより観劇「した」ことの方が、上演「する」ことより上演「した」ことの方が、生きて「いる」ことより生きて「いた」ことの方が、長い。当然「した」は「する」を含んでいるが、現代は「した」がステータス化し「した」だけを購入している。観劇歴はステータス化し、面白いかどうかではなく、「みた」ことに意味を感じて「みる」。「みた」が「みる」に擬態しているがみなくなる。チェルフィッチュを見ておきたいのも、映画の倍速視聴も、アート鑑賞を趣味にすることも、「した」の購入である。「した」マーケットは映画の倍速視聴のように、手軽にステータスを購入できる。演劇から「する」を切り離し「した」を重視する方針は、助成金申請が生んだコンセプトばかり先に行く演劇団体と等しい。『パフォーミングアーツマーケット』は助成金申請のための「する」擬態を解いた正直な「した」のマーケットである。「した」だけを考えた演劇が発展することは、点である「開演する」「開演した」「終演する」「終演した」が複雑に絡まる新しい表現を加速させる。「した」だけの作品を避難するだけでなく、そもそも「する」を重視しない価値観を加速させることができる。

竹内ミズキ

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