教育の正しい評価って死ぬほど難しそうだな……と想像するだけで憂鬱になる

去年話題になった新書「ケーキの切れない非行少年たち」を読んでいる。

本書で語られる、著者の経験と調査に基づく非行少年の問題の根深さは想像以上だった。

例えば、犯罪の加害者は当然のことながら自らの罪に対する反省を求められるのだが、そもそも自分の罪を認知できない加害者は珍しくないそうなのだ。
誠実さが足りないから反省できないんだ!! という単純な精神論ではなく、文字通り能力が足りないという意味で「認知できない」のだ。

自分の犯した罪の重さも理解できない。
罪を犯せば相手も自分も不幸になるという未来が想像できない。
そのための能力を備えていない。

こういった人達を更正させるためには、必然的に能力を高めることが必要になってくる。

もっと言えば、こうした加害者が生まれるより前に教育機関で適切な支援をしなければならない。
加害者の多くは、小学生の時点で能力の不足により苦しんでいたのだから、そうしたサインを見逃してはならない。

……こんな風に口で言うのは簡単だが、簡単じゃないから犯罪はなくならない。

例えば著者は、小学校で行われる「褒める教育」に対して批判的だ。

子供の悪いところよりも良いところを見て、伸ばしてあげようという「褒める教育」は一時的に気持ちを上向きにするにはいいかもしれないが、
「生きる上で必要なことができない」という悩みを抱えた子供が、抱えたまま成長したらどこかで行き詰まってしまう。

子供がたった今明るい気分になれるかどうかよりも、将来平和に生きていけるかどうかを重視しなければならない。

……もしも自分が教育者だったら、あるいは教育者を評価する立場の人間だったら、と想像すると頭の痛くなる話だ。

小学生の子供を教育しているのに、その成果を正しく評価できるのはその子が中学生、高校生と成長して自分の手を離れてからなのだ。

だったら小学校卒業後も追跡調査を行い、根気よく子供達を見守りながら評価を下そう。

と考えたとして、小学校での教育が素晴らしくても中学校の教育のせいで非行に走る可能性は当然あるわけで、
子供が非行に走るほど歪んでしまったのはどの段階の教育に責任があるのか、などと厳密に判断できるほどの調査にはどれだけの労力がかかるのか……そもそも労力をかけただけで可能なのか……。

考えただけで難しすぎて憂鬱になる。
テストの点数が上がったから素晴らしい!! みたいな明確さがない。

まだ私は本書を読んでいる途中だが、最後まで読んでも明確な答えは得られないと断言できる。

そんな答えが得られるなら、そもそも著者は本書を出版して現状を世間に訴える必要性すらないのだから。

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