“ボディパートナー”と呼ぶ理由・バラ鞭の間に「見える」もの
“数日の出張で行っていた関東から帰った。この数日の間で募らせた恋しさ。会いたい、触れたい、声を聞きたい。そしてセックスも、とことんしたい。「帰ったら、この数日間に思ったやりたいこと、全部ぶつけて抱き潰してね」家を出る時にそう約束していたから。
"恋人"、ではやっぱりないと思う。その言葉に当てはめると、途端に二人の間にある大切なものが薄まってしまう気がする。既存の枠組みにおさまらないから、Kanaとの関係性を説明しようとすると少し困る。でも、彼女を思うと色んな「好き」が浮かんでくる。ドキドキもときめきもするし、同じものに一緒に笑い合える安心感や幸福を感じる「好き」も、友達として大切にしたいって「好き」も、甘えさせてもらえるふにゃりとした「好き」や、人として尊敬する「好き」もある。そして、私が指輪より大切に思う首輪を大切にしてくれている、SMのパートナーとしての、唯一無二の「好き」も。もしこの「好き」が宝石みたいな形をしていて、それらを宝箱におさめたら、きらきらと色んな色に輝くんだろうなぁと思う。
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このタイミングで、鞭が届いた。音だけが高く鳴って、痛みは分散されてそれほど痛くはない、バラ鞭。この数日の間に選んで、買っておいてくれたらしい。それがすごく嬉しい反面、鞭で思い切り叩き続けられたことがないから、少し緊張もした。
だって鞭なんて、痛いだけだ。
その痛みに「見るもの」を知らない間は、軽い拘束なんかには興味があっても、鞭に全く興味を持てなかった。痛みに敏感な自覚があるから尚更。
少しずつ、少しずつ。Kanaと体を重ねて、性癖を吐露し合って、受け止めてを繰り返すうちに。加虐被虐という言葉では到底届かない柔らかさと温かさと安心感を、SMの痛みが「見せて」くれることを知っていった。それは知識で知れるものじゃなくて、少しずつ歩み寄った先に、自分たちの中から湧き出てくるようなもの。それを自分の内に持つ人とそうでない人はいると思う。少なくとも私たちの中にはそれがあって、それを分かち合える相手を無意識に求めていたけれど、「見る」まではその欲求があることすらしっかりと気づけなくて、ただどうしても満たされない何かがあることだけを知覚し虚無を抱えて生きていた。
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