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新・人魚姫 2020

 遥か遠い沖合いの海の底に、人魚の王様のお城がありました。
 王様は珊瑚で出来た立派なお城に、六人のお姫様たちと、王様のお母様と共に暮らしていました。お妃様は、一番下のお姫様を産んだ後、運悪く竜巻に飲まれて亡くなってしまいました。
 この六人のお姫様は年子でした。中でも一番下のお姫様は見た目も声も最も美しく、最も感受性が強く、最も思慮深い子でした。
 お姫様たちにとって、海の上の人間というものの世界の話をおばあさまから聞くことが、何よりの楽しみでした。おばあさまは、人魚の三百年の命と比べて人間の一生はずっと短いこと、その代わり人間は永遠の魂というものを誰もが持っている、と話してくれました。
「あたしたちは永遠の魂を手に入れることはできないの?」
 末のお姫様がおばあさまに尋ねました。
「それは無理だよ……。ただね、もしも人間の誰かが誰よりもおまえを好きになって、牧師様の前で永遠の愛の誓いを立てた時、その魂というものを分けてもらえるそうだよ。ま、そんなことはありえないけどね」
 お姉様たちはそういうものかと聞き流しましたが、末のお姫様だけはこの事実を深刻に受け止めました。
 おばあさまはお姫様たちに、十五歳になったら海の上に浮かび上がってもいいと、お許しを出してくださいました。一番下のお姫様は、十五歳になる日をどのお姉様よりも心待ちにしました。このお姫様は、難破した船から海の底へ落ちてきた人間の像を見つけ、とても大切にしていました。それは美しい少年の姿を大理石に彫ったものでした。
 あくる年、一番上のお姉様が十五になり、海の上へ行って戻ってきました。このお姉様は、教会の鐘や人のざわめきなどが面白かったと話しました。二番目のお姫様が海の上に行ったのはちょうど黄昏時で、雲の色がこの上なく美しかったことなどを話しました。
 お姉様たちは海の上へ行くまではたいそう興奮してはしゃいでいましたが、いつでも行けるようになると、それほど興味を持たなくなりました。そして、海の底のお城が一番いいと言い始めるようになりました。
 いよいよ一番末のお姫様が十五歳になりました。
 このお姫様が海の上に浮かんだのは夜でした。海には三本マストの船が漂っていて、何やら楽しそうな音楽が響いていました。
 お姫様が近寄って見てみると、船上には大勢の着飾った人々がいました。水夫たちが甲板で踊り出すと、若い王子様が現れました。年の頃は十六歳。人魚のお姫様は王子様の美しさに目を見張りました。王子様はお姫様が大事にしている少年の像にそっくりでした。この日はこの王子様のお誕生日だったのです。
 船から空に百近い流星が打ち上げられました。お姫様はびっくりして海の中に頭を沈めました。また恐る恐る頭を海から上げると、船の上の人たちは歓声を上げて喜んでいました。お姫様も今度は感心しながら観賞しました。お姫様は花火というものを見たことがなかったのです。
 次の瞬間、船は急に速度を上げて動き出しました。あっという間に雲行きが怪しくなり、風が強くなり、波が高くなっていました。嵐がそこまでやってきています。
 船は巨大なブランコのように一気に高く頂点に上り詰めたかと思うと、また奈落の底に落ちていきました。マストがへしおれ、船体はまっぷたつに割れ、人々の叫び声が響いてきます。人魚のお姫様には、王子様が船から海に落ちていくのが見えました。
 お姫様は材木や板の間をかき分け、王子様の元へ泳いでいきました。王子様の両目は固く閉ざされています。お姫様は王子様がどうか助かりますようにと祈りながら、荒波の中でその体をしっかりと抱いていました。
 やがて夜が明ける頃には嵐は過ぎ去り、海は静かになりました。空が白み始めています。船の姿は跡形もなく消えていました。
 遠くに森と教会のある入江が見えました。お姫様はやはり目を固く閉じたままの王子様を抱いて、そこへ泳いでいきました。
 岸辺に着くと、お姫様は王子様を砂浜に横たわらせました。暖かい日の光が砂浜や王子様の体をキラキラと照らし始めました。人魚のお姫様は王子様の髪を撫でながら、その額にキスをしました。
 教会から若い娘たちが出てきたので、人魚のお姫様は慌てて岩陰に姿を隠しました。その中の一番若い娘が、砂浜に横たわっている王子様の姿を見つけて、近づいてきました。
 王子様はそこでようやく目を開き、この娘ににっこりと微笑みました。他の娘たちも集まってきました。王子様はよろよろと立ち上がると、娘たちに囲まれながら、教会の中へ入っていきました。
 それを見届けた人魚のお姫様は、なんだか悲しくなって、海の底へ戻っていきました。
 それからというもの、人魚のお姫様は王子様のことが忘れられなくなりました。
 お姉様のお友達がこの王子様のことを知っていて、お城の場所を教えてくれました。それ以来、末のお姫様は、毎晩、王子様の姿をひと目見たいと、お城の側まで上がっていくようになりました。
 人魚のお姫様が海からお城を見ていると、王子様は毎晩、テラスに出てきました。王子様は海の遠くを見つめ、なにか物思いに耽っているようでした。
 人魚のお姫様は王子様のことばかり考えるようになり、海の底で楽しみを見つけられなくなってしまいました。
「あたし、人間になりたいわ……」
 お姫様は心からそう願うようになりました。
「ね、おばあさま。あたしたち人魚が人間になって、永遠の魂を手に入れることはできないものでしょうか」
 末のお姫様は改めておばあさまに尋ねました。
「そんなことを考えてはいけないよ。あたしたち人魚は、人間よりもずっと幸せなんだから」
 お姫様が人間の王子様に恋しているなどと露も知らないおばあさまは、そう言い聞かせました。お姫様は心の中で呟きました。幸せ……? あたしたち人魚が人間より幸せ……?
「さあさ、そんな浮かない顔しないで。三百年もある一生を楽しく暮らそうじゃないか。今夜はパーティでも開いて、歌ったり踊ったりしようよ」
 おばあさまの提案で、その夜、人魚の王様のお城では夜会が開かれました。みんな楽しそうに歌ったり踊ったりしていましたが、末のお姫様だけはひとり悲しみに暮れていました。
 お姫様が頼れるとしたら、渦巻きの向こうの森の奥に住んでいる魔女しか思い当たりませんでした。あの魔女は今まで恐ろしかったけど、相談してみよう。人魚のお姫様はそう決心し、魔女に会いに行くことにしました。
 渦巻きの向こうにある森は、何百ものポリプだらけでした。このポリプは蛇の頭のように蠢き、そのネバネバした腕で一度何かを捕まえたら、絡みついて決して離さないのでした。
 人魚のお姫様は怖くて立ちすくみましたが、王子様の顔や永遠の魂のことを思い、勇気を奮い起こしました。長く豊かな髪がポリプに捕まらないように抱き抱えながら、進んでいきました。 
 驚いたことに、魔女はお姫様を待ち構えていました。
「あんたがなぜここに来たか、あたしは知ってるよ」
 魔女はそう言って、ケタケタと笑いました。魔女の肌は陶器のようにきめ細かく、顔は美の見本のように整えていましたが、お姫様はちっとも美しいとは感じませんでした。
「あんたは人間になりたいんだよね。その美貌で王子様の心をたぶらかして、永遠の魂も手に入れようってわけだね」
 魔女はやはりせせら笑いました。
「あんたは欲深いね。でも、断っておくけど、王子様があんたに夢中になって、牧師様の前で誓いを立てなければ、その願いは叶わないんだよ。王子様が他の女性を選んで結婚しようものなら、その翌朝、あんたは夜明けと共に海の水の泡になってしまうんだよ。それでもいいんだね」
「はい、構いません」
 人魚のお姫様はきっぱりと言いましたが、顔は真っ青でした。
「それじゃ、薬をこしらえてやってもいいけど、その代わりに、あんたが持っている一番価値のあるもの……、その声を貰うよ」
「でも、それでは王子様と話ができなくなるではありませんか!」
 お姫様は思わずそう言い返しました。
「あんたにはその美しさと、優雅な身のこなしと、口ほどにものを言う目があるじゃないか! それだけあれば、人間の男なんてコロッと参ってしまうわ。さ、舌をお出し」
 人魚のお姫様は、後戻りできないところまで自分を追い込んでいました。もはや選択の余地はありません。魔女に舌を切り取られ、お姫様は完全に声を失いました。
 太陽が昇る前、人魚のお姫様は家族や自分のお城に心の中で別れを告げ、王子様のお城へ行きました。お城から海に続く大理石の螺旋階段に腰掛けると、お姫様はそこで魔女から貰った薬を飲みました。
 その途端、体を剣で突き刺されたような鋭い痛みを感じ、人魚のお姫様はその場に倒れてしまいました。お姫様はそのまま気を失いました。
 空が赤く染まり、夜が明け始めました。太陽の日差しと暖かさを感じて、人魚のお姫様は目を覚ましました。目の前に王子様が立っていました。
「あなたはどなたですか。どこから来たのですか」
 王子様は黒い目でお姫様を見つめています。お姫様は悲しげに王子様を見上げたかと思うと、次に恥ずかしさで目を伏せました。自分の体に目をやると、魚の尻尾が消え、二本の足に変わっています。自分が全裸であることに気づいたお姫様は、慌てて長い豊かな髪の毛で体を隠しました。
 人魚だったお姫様が口がきけないと悟った王子様は、お姫様の手をとって、お城へ連れていきました。歩き出した途端、お姫様は足の裏をナイフか針で突き刺されるような痛みを感じましたが、そこはじっと耐えて笑顔を作りました。
 お城に迎えられたお姫様は、絹やモスリンの立派な衣装をいただきました。お姫様はお城の中でも一番きれいでした。
 王子様はお姫様をたいそう気に入り、いつも側に置くようになりました。王子様はお姫様をどこへ行く時も連れていきました。お姫様は王子様と一緒に高い山にも登りました。足中が針で突き刺されるような痛みを味わっただけでなく、誰が見ても分かるほど、その華奢な足からは血が滲み出ました。それでもお姫様はただ笑って、王子様についていきました。
 夜、お城では余興が催され、女の奴隷たちが出てきて歌をうたいました。その中でも一番歌の上手い女が披露した時、王子様は大きな拍手をして、女に微笑みかけました。人魚だったお姫様はそれを見て悔しくなりました。あたしだったら、もっと上手に歌って差し上げることができるのに……。
 ダンスを披露する順番が来て、人魚だったお姫様も踊り子たちに加わりました。やはりひと足ごとにナイフで刺されるような苦痛を味わいながらも、人魚だったお姫様は誰よりも軽やかに、優雅に踊りました。王子様はそれを見て、誰よりも喜び、うっとりと見守りました。
 深夜、誰もが寝静まると、人魚だったお姫様はお城の階段を降りて、燃えるような足を冷たい海の水に浸して冷やしました。
 ある夜、人魚だったお姫様がいつものようにそうしていると、お姉様たちが浮かび上がってきました。お姫様とお姉様たちは、離れていても、テレパシーで互いに何をしているかを感じることができるのでした。
「海の底ではみんな、あなたがいなくなって悲しんでいるわよ」
 お姉様たちはそう言いましたが、お姫様にはもはやどうすることもできません。
 お城では、王子様が、人魚だったお姫様に日毎に夢中になっていました。
「ああ、なんということだろう。僕はある人に恋していたはずなのに、お前が現れてから全てが変わってしまった!」
 王子様はある日、人魚だったお姫様に告白しました。
「お前が僕のことを大切に思ってくれているのが分かる。お前はその人にとても似ているのに、お前の存在が大きすぎて、その人の面影が消えてしまいそうなぐらいだ。その人とはもう会うこともないだろう。だからきっと神様が、その人の代わりにお前を僕によこしてくださったんだね。僕らはずっとこうして離れずにいようね」
 王子様はそう言って、人魚だったお姫様の髪を撫でながら、お姫様の胸に自分の頭を押し当てました。お姫様は夢見心地で、王子様を受け止めていました。
「僕の十六歳の誕生日を祝うため、船上で夜会が開かれたんだ。その夜、嵐がきて船は沈み、僕は海に投げ出された。僕は幸運なことに岸辺に流れ着き、そこの修道院にいた娘に助けられた。それ以来、その人のことが忘れられなくなったんだ……」
 人魚だったお姫様は悲しくなりました。ああ、王子様は、あたしが命がけで王子様を助けてあげたことを何もご存知ないのだわ! 
 でも、その娘が修道院にいるなら、もう王子様と会うこともないわけね。それに比べたら、あたしはこうして毎日、王子様の顔を見ていられる。王子様に心から尽くし、いたわって差し上げよう。王子様を心から尊敬しよう。お慕いしよう。王子様にこの命を捧げたって構わない……。お姫様は改めて自分に誓いました。
 その翌日、お姫様が目を覚ますと、お城の廊下で女中たちが、王子様が隣の国の王女とご結婚するという噂話をしていました。
「隣の国の王女に会ってこなくてはならなくなった」
 王子様はお姫様にそう告げました。
「でも、お父様もお母様も、僕にその王女と絶対に結婚しなくてはならないとは仰ってはいない。僕がずっと思い続けてきたのは、あの修道院の娘なんだ。僕が誰かと結婚しなくてはらないとしたら、僕はその娘に似たお前を選ぶよ」
 そう言うと、王子様はお姫様を胸に抱き、その額にキスしました。ああ、いよいよあたしは王子様と結婚できて、人間の愛と永遠の魂を手に入れられるに違いない……! 人魚だったお姫様の胸は高鳴りました。
 王子様は船で隣の国まで行くことになりました。人魚だったお姫様も一緒に乗船しました。
「お前は、海は怖くはないだろうね」
 王子様にそう聞かれて、人魚だったお姫様は一瞬、複雑な表情をしましたが、すぐさま何でもないかのように笑いました。王子様は海に棲む生き物や、漁師が海で目撃した不思議なもののことなどをお姫様に話してやりました。お姫様はまるで初めて知ることばかりのように、楽しそうに聞き入っていました。
 隣の国の港に船が到着しました。船の上では夜会が開かれ、あとは王女が登場するのを待つばかりでした。
 人魚だったお姫様の耳に、夜会の招待客が、この国の王女は修道院で勉強をしていた、と話しているのが聞こえました。
 修道院……? お姫様は胸騒ぎがしました。
「ああ、あなただ! 僕がずっと会いたかった人は……!」
 王女と対面した王子様は、そう感嘆の声を上げました。それはあの朝、修道院から出てきた娘に違いありませんでした。
「ああ、僕はなんて幸運なんだろう! お前も喜んでくれるよね! 僕の幸せを心から望んでいたお前だもの」
 王子様にそう言われて、人魚だったお姫様は王子様の手にそっとキスしました。顔は笑っていましたが、胸は張り裂けそうでした。
 お姫様は天国から一気に奈落の底へ突き落とされたような気分でした。
 ずっとこのまま一緒にいようねと言ったのに。誰かと結婚しなくてはならないとしたら、お前を選ぶよと言ったのに……。あれは何だったの?
 人魚だったお姫様は、言葉や人の心というものが、いかに当てにならないかを思い知り、虚しくなりました。
 人魚だったお姫様は、王子様のために家族も何もかも捨て、毎日、切られるような足の痛み、苦しみを我慢してきたのです。
 それなのに、王子様はそんなことなど一切、思いも寄らないのです。
 王子様と王女は早速、船の上で牧師の前で手に手をとって誓いを立てました。ご成婚を告げる教会の鐘が鳴り渡りました。船の上の夜会は祝福の宴に変わりました。
 深夜になり、船の上は静かになりました。王子様と王女もテントの中に入っていきました。
 人魚だったお姫様は、ひとり甲板に出て、海を見つめました。このまま夜が明けたら、自分は泡になって消えてしまうのだと考えながら。
 その時、波間にお姉様たちが浮かび上がりました。見ればみんな、その長く美しかった髪がバッサリと切られ、短くなっています。
「あの魔女のところへ行ってきたわ。そしたら、あたしたちの髪と引き換えに、この短刀をくれたわ。日が昇る前にこれで王子様の心臓を突き刺して、その温かい血があなたの足に流れた時、あなたはまた人魚に戻ることができるのよ。さあ、早く。もうすぐ夜が明けるわ。急いで!」
 あの魔女は、またしてもなんという究極の選択を突きつけてくれたことでしょうか。
 人魚だったお姫様は短刀を受け取ると、王子様が眠っているテントのほうへ歩みました。テントの幕を開けると、中ではふたりともすやすやと眠っています。
 お姫様は手に握りしめた短刀を見つめました。それから王子様の寝顔を見ました。短刀を持った手がぶるぶると震えました。
 次の瞬間、お姫様はテントから甲板に出ました。東の空が明るくなり始めていました。お姫様は目が霞むのを感じながら、短刀を海に投げました。すると、まるでそれが砕けちるがごとく、そこに血飛沫が広がりました。人魚のお姫様は自分も海に身を投げました。
 冷たい海の水の泡が人魚のお姫様の体にまとわりつきます。お姫様は自分が少しも死んだような気がしませんでした。

 それもそのはず、人魚だったお姫様は死ななかったのです。お姫様は生きていました。その証拠に、海の水の冷たさと、窒息しそうな息苦しさを感じていたのです。
 お姫様は急いで海の上へ泳いで顔を出し、ふーっと深呼吸しました。ああ、その快感といったら! お姫様はその時ほど、自分が生きている喜びを感じたことはありませんでした。
 お姫様は岸まで泳ぎ着き、陸の上に上がりました。するとどうでしょう! あんなに歩く度にいつも激しく痛かった足が、今はちっとも痛みを感じないのです。
 ああ、あたしを助けてくださったのだわ、「あの方」が。お姫様はそう心の中で言って、天を仰ぎました。人魚だったお姫様には今、この瞬間、自分が生きていることが奇跡であること、自分が何か大きな力に守られていることが分かったのです。
 人魚だったお姫様は海が見渡せる岩の上に腰掛けました。お姫様の脳裏に様々な思い出が駆け巡りました。と同時に、反省も波のように押し寄せてきました。
 自分のことを思ってくれるお姉様たちや家族がいて、とても恵まれた環境にいたのに、いつも嘆いてばかりいたこと。おばあさまが楽しく過ごそうと言ってくれた時でも、ひとり浮かない顔をしていたこと。そんな素晴らしい家族をあっさり裏切ったこと。王子様が自分と結婚してくれるなんて一か八かのギャンブルでしかなかったのに、不安に駆られ、あの心の曲がった魔女の思うまま、大切な声を手放してしまったこと……。
 それでも人魚だったお姫様は、後悔はしていませんでした。たとえうまくいかなかったとしても、挑戦したからこそ、多くのことを学び、成長することができたのです。王子様の寵愛という一種の熱にうなされ、それを失った今だからこそ、お姫様は冷静になって自分の過ちや愚かさに気づき、受け入れることができました。
 このように命拾いをした後では、人魚のお姫様は、自分を守ってくれる大いなる力、天に、常に自分の行動が見られていると意識せざるをえなくなりました。天とこの世、そして海の底にいる家族や仲間に恩返しをするような生き方をするより他はないように思われました。そもそも永遠の愛と魂を得るために王子様に選ばれたいという一心で、この人間界にやって来たことが間違っていたのかもしれない……。人間の世界にどのように自分が貢献できるのかを真っ先に考えるべきではなかったか。
 人魚だったお姫様はお日さまを仰ぎました。何から始めていいのか、さっぱり分かりませんでしたが、とりあえずお姫様は岩から降りて歩き始めました。
 お姫様は空腹を感じていました。思えば人魚でいた頃は、水中には無尽蔵に食べ物(プランクトン)がありました。ところが、人間の世界では、王様やその家族でもない限り、働いて食べる物を得なくてはなりません。
 お姫様は一銭も持っていません。かと言って、王子様の元へ戻るのは憚られました。
 人魚だったお姫様はパン屋の前を通りかかりました。焼き立てのパンの香りがします。お姫様はどんなにそのパンを口に入れたかったことでしょう。お姫様は立ち止まり、パン屋の隣の木陰で休みました。
 ひとりの男が通りを荷車を押して近づいてきました。男は荷車をお姫様の目の前で停車させました。それからパン屋の中に入り、今度は手に抱えられるだけの一杯のパンを持って出てきました。男は一旦、荷車にそのパンの束を置くと、向かいの鍛冶場の男と立ち話を始めました。お姫様の目と鼻の先に、男が置いたパンがありました。それらはあまりに近くて、男の視界の陰になっていたので、男に気づかれないまま、パンを1個だけ、こっそり抜き取ることさえできそうでした。
 そんな誘惑に駆られながらも、人魚だったお姫様は「あの方」が見ている、と考え、動かずにじっと座っていました。ほどなく男は荷車を引いて、そこから立ち去りました。お姫様は、自分が誘惑を行動に移さなかったことを安堵しました。
 今度はパン屋から若い男が飛び出してきました。男は夜が明ける前からパンを焼いていたのか、仕事が終わって嬉しそうでした。
 男はお姫様がぼんやり座っているのに気がつくと、手に持っていた袋の中から、菓子パンを取り出しました。
「パン、欲しい?」
 お姫様は思わず「え?」という顔をしました。
「貰ったんだ。沢山あるんだ。君にあげるよ」
 お姫様は驚いて若い男を見つめました。彼はただ親切で分け与えようとしてくれているようでした。お姫様はパンを受け取りました。
 若い男がその場から離れると、人魚だったお姫様は貰ったパンを食べました。ああ、空腹の時に食べるパンの美味しかったこと! お姫様は何も盗んだりすることなく、ひと様の善意でパンを手に入れることができました。お姫様はまたしても「奇跡」に感謝しました。
 人魚だったお姫様にはこれからどうするのか、全く当てがありません。お姫様はどうしたものかと、パンを齧りながら考えました。
「あら、あんた、お城にいた子じゃないか」
 通りすがりの女がお姫様を見て、そう声をかけました。女はお城に出入りしていた業者のひとりでした。
「あんた、確か王子様に可愛がられていた子だよね。可哀想に、王子様は隣の国の王女と結婚してしまって。あんた、追い出されたのかい?」
 女の言い方はどこか嘲りに満ちていました。お姫様はとりあえず何でもないように微笑みました。
「あんた、ここで王子様が迎えにくるのを待ってるのかい?」
 女はお姫様にそう尋ねました。
「王子様が現れないなら、今夜だけでもうちに置いてあげてもいいよ。お城であんたを探していたら、あんたを連れ戻ったあたしにも褒美が貰えるだろう」
 そう言って女はにやにやと笑いました。女の言葉はお姫様の心をチクリと刺しました。それでもお姫様は何でもないように微笑んで、やんわりと辞退しました。女はそそくさとその場を去っていきました。
「あんた、お城にいたよね」
 また別の女が通りかかり、お姫様に声をかけました。この女は王室お抱えのお針子で、お城にしょっちゅう出入りしていました。人魚だったお姫様の衣装も縫ったことがありました。
「どうしたんだい、こんな所で。何かあったのかい?」
 女は心から心配してくれているようでした。
「お城を出てきたのかい? 当てはあるのかい?」
 お姫様は首を横に振りました。
「じゃあ、うちへおいで」
 女は快くそう言うと、人魚のお姫様を自分の家へ連れていきました。道すがら、通りすがりの何人もの男たちが、お姫様をじろじろ見つめました。もしもこの針子の女が声をかけてくれなかったら、お姫様は行く宛のないまま、不安と心細さから、これらの怪しい男たちについていったかもしれません。そうならなくて良かったと、お姫様は心から感謝しました。
 女の家は塀に囲まれた石造りの平家で、何人ものお針子の女たちが働いていました。女の妹は乳飲み子を抱えながら、彼女たちを監督していました。
 人魚だったお姫様は家に置いてもらう代わりに、家事を手伝うことになりました。お姫様は掃除や洗濯、料理などしたことがありませんでしたが、他の女たちに手取り足取り教えてもらいながらやってみると、意外と楽しい作業であることを発見しました。
 女たちが助け合って生活する家での暮らしは気楽でした。皆で一緒に毎日、賑やかにご飯を食べるのも楽しく、充実していました。夜、人魚だったお姫様は寝床の中で、心地よい家と、親切な仲間と、美味しい食事と、寝心地の良いベッドがあることに、感謝の言葉を言って眠るようになりました。あたしはお城にいた時より、今のほうが幸せかもしれない……。お姫様はそう感じるようにさえなっていました。
 それは不思議なことでした。お姫様はあんなに立派なお城で暮らし、最高の衣装で着飾り、あんなに美しい王子様の顔を見ながら、毎日過ごしていたのですから。
 王子様のお城にいた頃は、人魚だったお姫様は毎日、王子様をどのように失わずに済むか、どのように王子様に気に入られるか、そればかり考え、不安と恐怖に苛まれ、気の休まることがありませんでした。何かを失いたくないという執着……。それが大きな心の負担であったことに、お姫様は気がついたのです。
 今の生活はずっと質素でしたが、安心感で満たされていました。何かを失うかもしれないという恐怖や、将来を考えて不安に苛まれることが一切ありません。瞬間瞬間が満ち足りていました。日々の幸せは自分で作り出すものであり、他人に委ねて得られるものではないことを、お姫様ははっきり確信したのです。
 人魚だったお姫様は、執着に振り回されてきた自分を振り返って、それを喜劇のように考え、笑うことさえできました。清々しい気持ちで一杯でした。お姫様は新しい人間として生まれ変わったのです。
 ある日、お使いを頼まれたお姫様は、市場へ買い物に行きました。
 お姫様が店先で果物を選んでいると、老女が声をかけてきました。老女はお姫様の身の上を聞き出そうとしましたが、お姫様は話すことができません。
 すると老女は、自分の身の上について語り始めました。ある大きな街に住んでいたが、何もかもうまくいかず、この海辺の街へチャンスを求めてやってきたこと。しかし、ここでもツキに見放されていること……。
「私は牢屋に閉じ込められているみたいなの」
 女は自分の心のあり方を、そう表現しました。
 人魚だったお姫様はふと思いました。この人は、王子様のお城にいた時のあたしみたいだ……。
 老女はお姫様が喋れないと悟ると、物足りなくなったのか、相手をしてくれそうな別の女を見つけ、話しかけていきました。
 お姫様はほっとしました。お城にいた時はものが言えないことをいつも悲しく思っていましたが、今はそれによって、女の愚痴を聞かなくて済んだのです。
 何が災いか幸運か分からない……。人魚だったお姫様は思いました。もしかしたら、それはあたしが決めることではないのかな。
 ある時、人魚だったお姫様は家の庭を掃いていました。すると、女主人の妹の赤ん坊が泣いているのが聞こえました。
 母親がちょっと離れた隙に、赤ちゃんは庭先の手押し車の中で、ひとり声を震わせて涙を流していました。お姫様は側に行き、人魚だった時に歌っていた子守唄を無音で口ずさもうとしました。
 赤ちゃんがぴたりと泣き止みました。そこでお姫様は、自分の声が出ていることに気がつきました。口を開けて指で触れると、切り取られたはずの舌が生えていました。
 お姫様は夢なら覚めないで欲しいと思いながら、嬉しくなって歌い続けました。赤ちゃんはこの世のものとは思えないほどの美声を聴きながら、いつしかすやすやと眠ってしまいました。
 また奇跡が起きた……。人魚だったお姫様は「あの方」に感謝しました。
 それ以来、お姫様の元には、次から次へと、泣いている赤ん坊を連れた母親がやってくるようになりました。お姫様が歌うと、どの赤ん坊もぴたりと泣き止むだけでなく、うっとりと聴き惚れ、じきに眠ってしまうのでした。
 赤ん坊を連れてくる親の数は増えていきました。お姫様の家では、定期的に母子を一同に集めた歌の披露会を催さなくてはならなくなりました。赤ちゃんの親は、親戚、友人、知人らも誘い合わせてやってくるようになりました。
 ある夜、人魚だったお姫様がふらりと海辺へ歩いていくと、お姉様たちが波間に浮かび上がってきました。
「お姉様! あたし、声が戻ってきましたの!」
 お姫様はそう伝えました。お姉様たちは海の魔女が死んだことを告げました。なんでも魔女に虐げられていた森のポリプたちが反乱を起こして、魔女は殺されてしまったそうです。
「魔女が色々な相談相手から代金として奪っていたものが、魔女が死ぬと同時に、全部、元の持ち主に返ってきているそうよ」
 お姉様たちが教えてくれました。
「他人の不幸を嘲ったり、いつも不平不満や愚痴ばかり言っている者は、こちらが何もしなくても勝手に自滅するって、おばあさまが仰っていたわ。おばあさまは海の世界で、そういう運命に遭った者をたくさん見てきたって」
 お姉様がそう言いました。
 お姫様の歌声を聴きたいと、家には老若男女がひっきりなしに詰めかけました。家の女主人が求めなくても、感動した聴衆は賽銭を投げていきました。お姫様は方々からぜひ歌いに来て欲しいと招かれるようになり、家まで来られない人や遠方の人たちの前で歌うため、あちこちへ出かけていくようになりました。
 お姫様が海辺の街で歌うことになった時には、こっそりお姉様たちも集まり、お姫様の歌声に合わせて波間からコーラスをつけました。聴衆は何とも言えない神秘的な合唱を聴いて涙しました。
 こうして人魚だったお姫様は、人気歌手として名声を高めていきました。気がつくと、いつのまにか信じられないほど資産も増えていました。お姫様を世話してくれた女主人の家は豪邸に変わり、出入りしていたお城よりもお金持ちになっていました。
 人魚だったお姫様にとってはただ毎日が楽しく、殆ど努力もすることなく世間から認められ、一気にするすると突き抜けていっただけなのです。人から喜ばれることがこんなに幸せなことなのかと、自分に与えられた使命にお姫様は感謝しました。
 王子様の妃になった王女は、何の努力もせず、あの嵐の翌朝、ただ偶然、通りかかり、王子様に選ばれたのです。物事がうまくいく時、それが宿命である時は、恐らくそういうものなのでしょう。
 今となっては人魚のお姫様は疑問に思っていました。王子様はあの嵐の翌朝、王女にひと目で惹かれたのであり、たとえ王女以外の誰かに助けられていたとしても、それは関係なかったのではないかとさえ思うようになっていました。
 人々は人魚だったお姫様の歌を聴くだけでなく、お姫様の人生についても知りたがるようになりました。最初は人魚だった過去を隠したほうがいいのではないかと思っていたお姫様も、自分の生き方や経験が、多くの人、とりわけ失恋した女性に勇気を与える事実に気づくようになりました。今では人々が自分の全てを受け入れてくれている自信が持てるようになったため、正直に全て話すようになりました。お姫様はほぼ毎日、国を超えて招かれ、歌と講演活動をするようになりました。
「たとえどんなに苦しくても、辛くても、あなたはご自分がこの世界に守られていることを、決して忘れないでください。あなたが志を高く持ち、自分を信じていれば、絶対に大丈夫です。うまくいきます」
 人魚だったお姫様はそう訴えました。人々はお姫様の歌声だけなく、お姫様の人生と生き方に感動しました。お姫様も自分の声が戻って、こうして声を通じて人々にメッセージを伝えることができることに感動しました。
 そんなある日、あの王子様から、お姫様にお城への招待状が届きました。そこにはぜひお城で歌を披露して欲しいと書かれてありました。
 数年ぶりに再会した王子様とお姫様は、互いに懐かしさで胸が一杯になりました。
「おまえとまたこうして会えるなんて夢のようだよ。おまえが声が出せるようになって、こんなに有名な歌姫になるなんて!」
 王子様は興奮してそう言いました。王子様はお姫様が世間に語っていることを人づてに聞き、何があったかを把握していました。
「おまえに辛い思いをさせて済まなかったね。僕を助けてくれてありがとう」
 王子様はそう言って、人魚だったお姫様の両肩に手をかけました。
「王子様のせいではございません。全て私が望んで選んだだけのことですから」
 人魚のお姫様はそう答えました。王子様の懐かしく優しい、黒い両目がそこにありました。
 お姫様は王子様とお妃の前で心を込めて歌い上げました。お姫様の声はお城全体に浸透し、その場の空気をも清浄なものに変えてしまうほどでした。王子様は感激し、人魚だったお姫様に、城に残って毎日歌って欲しいと言いました。
「以前のように、毎日ここで一緒に楽しく暮らそうよ」
 人魚だったお姫様は、夢を見ているような気持ちで聞いていました。
「王子様のお側にずっといられたら、なんて素敵なんでしょう」
 お姫様はそう呟きました。
「でも、私には今ではやるべきことがあるのです。世界中に私の声と歌を楽しみに待っている人たちがいるのです。今ではその人たちのことを考え、喜んでもらえることが、私の最大の生きる喜びなのです」
 お姫様は微笑みながら、嘗てはお姫様の全てだったはずの王子様に、そう告げました。お姫様は自分がそう言えることを誇らしく感じました。
 人魚だったお姫様は王子様の城を後にしました。お姫様は改めて全ての経験に感謝しました。そして感傷に浸る間もなく、次の人たちが待っている場所へ旅立っていきました。
 王子様は城の上から、いつまでもお姫様の一行を見送っていました。王子様の心にはふと、この人魚だったお姫様を妃に迎えることができていたら、自分の国を何十倍にも発展させることができたかもしれない、という思いが過ぎりました。人魚だったお姫様は、今では王子様の国の何十倍も裕福になっていました。王子様の国は元々、ビレッジのような小国だったのです。王子様が妃に迎えた王女の国もやはり小国でした。
 全てはもはや考えても仕方のないことでした。
 人魚だったお姫様は、旅先である男性を紹介されました。その方は山の上にある小国の王子様でした。あの大好きだった王子様に負けないほど美しい顔立ちで、心優しい人でした。この王子様はお姫様のために様々なことを取り計らってくださって、お姫様の歌会にも頻繁に来てくれました。
 この王子様はやがてお姫様の旅に同行するようになり、ふたりだけの時間を過ごすようになりました。やがて王子様とお姫様はご婚約を発表しました。
 こうして人魚だったお姫様は、人間としての幸福と永遠の魂を手に入れることができました。今度は、お姫様がそれらを求めたからではなく、自分にできることをやり続け、感謝し続けたことで、嘗て抱いた夢を自然に叶えるというやり方で。

おしまい
 
  


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