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多様性と2:6:2の法則の話

性格や振る舞いにおける男らしさ・女らしさという謎の概念

私は性別は女性であり、恋愛対象は男性で、現在結婚しており、子供を育てています。しかし過去にとある女性に強い性的魅力を感じこの人とならキスや性行為が出来ると感じたこともありますし、学生の頃は同性の女の子から疑似恋愛(?)の対象とされたり、胸を見たがられるとか触りたがられるようなことも何度かありました。

脳科学的にはポルノを見た時に、男性は性的対象のみに強い脳の反応があり、女性は男性だけでなく女性や女性同士・男性同士でも性的興奮を感じるという話もあり、男性社会の強い「男らしさ」「女らしさ」へのこだわりに比べて、女性社会はスキンシップや共感性が強く、そういうジェンダーバイアスにもかなり寛容なのかもしれません。

過度の男らしさ・女らしさの振る舞いはなんだか演じているように感じる

ユングは男性の中の女性性をアニマ、女性の中の男性性をアニムスと名付けました。男性の中のアニマを抑圧するのではなく、自己のアニマを認めることで人格としての成長が高まる。アニマには四つの段階があり未熟なアニマはより女性性が強く原始的で、成熟したアニマは中性的で豊かです。
本来人間の中には社会的な男性らしさも女性らしさも内包されていて、成熟とは性的バイアスに囚われない中性的な状態であるということだと思うんです。

特に男性らしさ女性らしさのジェンダーバイアスが強い男性社会で生きるゲイ(オネエ)の方は、「これが女らしさ」という言葉遣いや振る舞いが非常に強い気がします。「~~なのよ~!」「あらやだー!」「アタシねぇ~」「キャー!」身体をくねらせたり、大きなリアクションで口を覆ったり。ちょっと意地悪で毒舌なのもオネエ特有かもしれません。本来の女性はあまりしない言動です。
おそらくそういうアイコン的な振る舞いでより「女性性」をアピールしなければならないからなんですよね。他者目線で自分が「女性」であると認知されたいという自己呈示が、彼らにそういう過度の女性性を演じさせる(ちなみに男性の同性愛者でも性的自認も振る舞いも男性のままの人も沢山います)

私は女性だけど女性らしさを強要されるのは嫌だ

おしとやかな言葉遣いや仕草、恥じらい、下品な下ネタを言わない、可愛く拗ねる、華奢で少女のような身体つき、女の子らしいファッション。カラオケは細く高い声で、愛らしく振り付けまで完璧にアイドルの曲。
そういう女が好きだ、という男性がいても構わないですし、私もそんな女の子は可愛いと思う。そしてそんな女性とラブラブなカップルがいても微笑ましいと思います。
でも私という個人にそれをしろと強要するのはおかしい。そもそも別にお前の好みに振る舞う必要性がねぇ。
私の学生の頃は空前のカラオケブームだったので、ちょっと気になる異性がいたらカラオケに誘って、男性はカッコいい選曲で男らしさをアピール、女性は可愛らしいアイドル曲で女の子らしさをアピールし、目を見つめあってお互いに性的に意識するみたいなのがあったんだと思います(今思えば笑)
人間の世界にはそんな不文律があるとはつゆ知らず、そもそもカラオケに誘われる=単なる暇つぶしくらいにしか考えてない上に、ガチで自分の好きな歌を歌ってしまう他者目線皆無(反応性愛着障害持ち)の私は、面白いくらい相手にガッカリされる笑
でも、なんだよこいつ萎えるわ~ってあからさまに幻滅した男性の顔をみるのも割と面白い体験ですし(私にガッカリするのは相手の自由)、岡村靖幸のSuper Girlを「そっくりだ〜!」と喜んでくれた男の子の事はいまでも忘れないです(別に恋愛的に好きってことでは無いけれど笑)。

不必要な他者目線は手放した方が自由に生きられる。他人はコントロールできない。

私は家庭崩壊毒親育ちの被虐待児なので、社会的な「女の子らしい躾」を受けてないんですよ。基本ネグレクトかボコボコに殴られて家事労働させられてただけで、料理とかもやれと言われて、どうするのかを聞くとそんなのことも分からないのか!とボコられるだけなので。
おそらく反応性愛着障害もちで、他人との関わりも極力回避して生きてきているので、社会的な不文律もよく分からないことが多い。
しかし他人からどう思われるかを常に気にして、~らしさとかを本心とは別に常に演じ続けなければならないのは非常に苦痛だろうなと思います。冒頭の氷川きよしさんのように、本来の自分とは異なる人格を演じること、他者の期待する何かを常に演じることは、普通に考えて無理があるし、それこそ自殺も考えるほどの大きな自己否定やストレスになってもおかしくない。

基本的に他害行為や法的逸脱行為以外であれば自由に生きて構わない

どんな人でも必ず2割の人は好きになってくれるし、6割の人は無関心だし、2割の人には嫌われるという2:6:2の法則という考え方があります。

そこで偽りや演じることで本来の自分を隠したとして、それで好きになってくれた2割の人達は、本来の自分が露呈した時には「ガッカリした」とか「そんな人だとは思わなかった」とか「前と印象が全然違う」とか「騙された」とか「もう以前のように戻らないの?」とか言われてしまうんですよね。
人間は多様性があり価値観や好みも様々なので、どうせどんなパーソナリティであっても2割からは好かれるし、2割からは嫌悪されるのであれば、初めから自分の譲れない価値観や自分が楽しいと思うことをそのまま大切にしていれば、それを良いと思ってくれる人と仲良くなれるし、合わない人とは距離を取ればいいだけの話なわけで。
合わない相手に迎合して自分を偽って萎縮するコミュニケーションで苦しむくらいなら、1人で過ごした方が余程楽しく生きていける。

「嘘をついていた」「騙された」という印象を持たれることのリスク

人間って勝手なもので、ほっといても見た目とか認知の歪みとかで、訳の分からない妄想や思い込みを投影してくるんですが(私はSNS上で高確率でおっさん投影されます笑)、勝手に思い込んだり、勝手にガッカリされたりするのは相手の自由だと思っています。でももしも私が「私は男です」と言ったとしたらそれは嘘であり、相手を騙したことになります。
他者によく見られたいと、社会的な不文律などに従って、本来の自分を隠して違う姿を演じるというのは、それが露呈した時に「騙した」「嘘つき」という非常に悪い印象がつきます。それは、女の子らしくないとかやけに男の歌を歌う変わり者の女とかよりも、よほど致命的な悪印象になります。
演じる、印象操作するというのは、本来の自分を偽る生きづらさにプラスして、更に人を騙す信用ならないヤツという信頼の失墜にも繋がるのです。
欠点や短所は反省して改めるのはとても大切な学びと成長ですが、他者目線・他人軸に振り回されて、自分を否定して、偽って、演じるのはただただ生きづらさを増して、信頼を失うことにしかなりません。
そして、法的逸脱行為や他害行為ではない、個人の自由である部分を、自分の価値観と違うからという理由でやたらと攻撃したり、同じであることを強要したりすることは人を苦しめることでしかなく、生きづらい世の中を作り出すだけです。
そういう奴に「お前がおかしいんじゃねぇの?」とはっきりNOがいえる世の中になった方が余程生きやすいと思います。

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