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DAY3-2|メッシュワークゼミナールの記録(2023/09/30)

メッシュワークゼミナール第2期「人類学的な参与観察によって問いをアップデートするトレーニング」における活動の記録。


【課題図書】

『フィールドワークへの挑戦〈実践〉人類学入門』 菅原 和孝 編(世界思想社)

フィールドワークによってあなたが手にした<観察事実>は、いっけんしたところ、瑣末なものかもしれない。だが、それをより広い文脈に置きなおすときに、その<事実>からイモヅル式にいろんな問題がたぐり寄せられ、さらにそこから、あなたが生きることにとって重要な<意味>が照らしだされる。だが、自分の膂力だけによっては、観察をより広い文脈に置きなおすことができない場合がある。そのとき梃子として働くのが<理論>である。べつにその<考えかた>を忠実に踏襲する義理はない。あなた以外の人の思考が、あなたに「発想の転換」をもたらし、堂々めぐりに風穴をあけてくれさえすればよいのだ。

出典:『フィールドワークへの挑戦〈実践〉人類学入門』- 終章 生き方としてのフィールドワーク(p.316)

【印象に残った話】

■記述した断片を渡しても「そのままを伝える」ことはできない

観察してノートにメモをした段階では、まだ情報は断片的である。それを他の人に手渡しところで、まず書かれたデータの読み方が分からないという状況が発生する。書いている人は、その対象を囲む全体と文脈の中で、そのものを捉えており、「そのままを伝える」ためにはその全体と文脈を合わせて差し出す必要がある。情報量はあっても面白くないレポートというのは、読んでいても、“その人の眼差し”が分からないもの。断片的な記述をもとに、自分のレンズを通して見えた世界を編み上げていけるかどうかが、人に読まれる“おもしろい”レポートになり得るかを左右する。

■文章にすると、書き手の認識や解釈が入り込んでいく

現場ではメモを取るので精一杯でも、ノートにまとめるときは箇条書きではない文章として書くことが大切。文章にすると、否が応でも書き手の認識や解釈が入り込み、文体や引用の仕方などの細部にも、その人がどう捉えて、どう考えているかが表れる。それは民族誌・エスノグラフィーを書く手触りを知る一歩にもなるはず。人に伝えるうえで、どうしたらおもしろく伝わるだろう?と考えるのも、人類学的なアプローチにおいて大切のところ。

■何度もフィールドに向かい、少しずつ像をむすんでいく

マリノフスキはフィールド全体を掬い上げ、理解しようとしているが、ふつうの人間が同じことをするのは現実的ではない。大事なのは、何かを掴むときには何かを取りこぼしていて、掴み取ったものは対象の“全体”ではないという自覚を持っておくこと。また、複数回フィールドに行くことも重要な意味を持つ。一度に見れることは限れている。ある種のスコープを持ってフィールドに向かい、一つひとつ事実を明らかにしていく過程で、少しずつ像を結んでいくようなイメージ。最初から本質にたどり着くことはない。


■まずはどこかに旗を立てる

自分の分かりたいことを分かろうとすることは大事だが、最初は何から始めてもいい。大事なのは、どこかに旗を立てること。そして、その対象を見て、その人たちと話してみる。そうする内に、「(自分の知りたいことは)これじゃない」ということも含めて、分かることが出てくる。その頃には次のステップは開かれている。

インタビューや意識的な観察で捉えられる情報は限られたものだが、(旗を立てることで)次第にふつうの生活の中で五感を使うようになっていく。

それでも「見たいものしか見えない」という壁を乗り越えていくことは、どこまでも付きまとう課題となる。人類学をすると、足場が揺らぐような期間が訪れる。まずはそのとき自分が感じる不安と向き合っていくことから始まる。

■実践理性、生きられる規則とその運用

文中で出てきた「実践理性」に近い表現で、「生きられる規則」という言葉が人類学ではよく使われる。人が規則にどういう風に縛られているかではなく、どう運用しているかを見ると、実は人によって作り替えられたりもしている。生きていく上での技法や作法のようなもの。人々がいかに柔軟に規則をかいくぐって生きていくかに着目するのはおもしろい。

■身体なしで分かることと、身体で分かることの差

重さについて語るときに、何kgだったかという話だけでなく、実際に持って“重い”ということの解像度を上げる必要がある。数字を測ることとは別に、記述の質を高めていくアプローチが大切。

■個別と全体

(自然科学のような形で説明できるものではないが)個別の細部が全体へとつながっていく。「全体」というものさえ、想像上のものでしかない。
理想的な人類学のエスノグラフィーは、個別具体的なことと、理論がつながっているもの

■「とりあえず溺れろ」

比嘉さんが、菅原先生のもとで受けた教育は「とりあえず溺れろ」という方針だったそう。事前にどうなるかを考えると、制約をかけてしまう。あとで編集するけど、最初から編集してしまわないように。


【おわりに】

DAY3-2の振り返り(2023/11/3)

この回は終了後に振り返りをかけておらず、今日メモを頼りに編集しなおしていった。結果として、頭から抜け落ちている部分が多く、自分の勝手な想像で間をつないだ部分がいくつかある。テキストを編集するということが、どのような行為なのかを、改めて感じる時間となった。

振り返ってみると、勇気のわく話も色々とあった。悩んだときにはフィールドワークへの挑戦をもう一度読むのもいいかもしれない。





※以下はDAY3-2の課題図書を読んで、事前に抜き出していた箇所

【① 印象に残ったところ】
P.106/「関わりが深まる」とは、そのようなユーモアのセンスをーーすなわち<勇気>を共有することなのである。
 
P.141/だが、これを≪実践理性≫の問題として捉えなおすならば、話は変わってくる。
(中略)…そのとき、その共同体が増幅しつづけるsの説得力に対してあなたが「ふむふむ」と思うことは、実践的には「非合理的」とはいえない。
 
P.205/生きられる規則としての制度の探求に、フィールドワークの価値がある。
 
【② みなさんと議論してみたいところ】
P.205/どこに共有の限界を定めるかは、あなたがみずからのなかに育てる倫理観に任せるしかない。


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