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DAY2|メッシュワークゼミナールの記録(2023/09/23)

メッシュワークゼミナール第2期「人類学的な参与観察によって問いをアップデートするトレーニング」における活動の記録。


【課題図書】

『人類学とは何か』ティム・インゴルド 著、奥野 克巳、宮崎 幸子 訳(亜紀書房)

道が、まだ見ぬゴールにどうやってたどり着くかの答えではないように、生き方は、生についての問題に対する答えなのではない。そうではなく、人間の生とは、その問題に対する一つのアプローチなのである。

出典:『人類学とは何か』- 他者を真剣に受け取ること(p.7)

【印象に残った話】

■生成しつつある世界を捉える

“生成”というインゴルドの著書によく出てくる言葉。「人類学は何を見ているのか? 」という問いへの「人の変化、関係性を見る」という回答。個人のいまここだけを切り取るのではなく、長く調査することで、そこで生じている変化と関係性(と築かれている世界)を捉えていくのが人類学的な見方。

■参与観察では“一緒に踊る” 私と人びとを観察する

5~10分で築ける関係性に「ラポール」という言葉を充てる意味はあるのか?参与は簡単には生じない。人びとを対象とする of ではなく、ともにする with が参与観察。ふつう観察とは踊る人を見ることだが、参与観察は一緒に踊る。一緒に踊る私と、一緒に踊る私と関わる人びとを見る私を持つ。踊りの最中に離れてみることは難しいが、書く作業が自分を観察者の立場に引き戻す。

■人類学的アプローチとプロセスに宿るもの

マーケティング領域で言われるエスノグラフィーは方法論だが、メッシュワークがやる人類学的アプローチは、そうしたリサーチ手法とは違うもの。(方法論はアウトプットに対して期待されるものだと思うが、人類学はプロセスそのものが重視されるときに力を発揮する? )「プロセスにすべてが宿る」と比嘉さんは考えているとのこと。プロセスを度外視したアウトプットは人類学的なものにはならない。

■オルタナティブを考える/歴史と人類学

インゴルドが語る「歴史」も動的な世界観を持っている。それは何かを固定化する説明に対するアンチテーゼでもある。絶えず生成するものの集団的な生成過程が「歴史」。時間軸だけでなく、nature / nurtureの軸なども同様の目線。多元的/多声的/ Plural はいまの現代思想のキーワード。複数の線が絡まるなかで何かを拾っていくことがインゴルド的である。

『ラディカル・オーラルヒストリー』のように文字記録がない社会における歴史とは何か? SFやフィクションがオルタナティブを示すことにも意味があるが、私たちの生きている世界の中にも違う見方がある。それをサンプリングするのではなく、いかに真剣に考えられるか。その在り方自体が多元的であることに繋がっていく。教科書的な勝者の歴史ではない、語られない歴史を知ること。「人類学を始めて、私が知りたかったのはそういうことなんだと思った」と比嘉さんはいう。人類学をすることと、歴史を考えるのは近いこと。

■比較を通してではなく、そのままに知る

人類学は“比較”を重要とはしない。分析的に分かることもあるが、逆に見えなくなることもあるのではないか。色んなものを、色んなものとして、個別具体的なそのものとして受け取ることを人類学は学問として引き受けていくべきだと考える。そしてそれをどう論じていくか。

■「oneness」世界が一つであること、人間そのものを見ること

「人類学にとって挑戦とは、多種多様の異なるものからなる世界が一つであることを、明晰に確信を持って打ち出すことである」(p.37)こちらは議論についていけず自分のメモが支離滅裂だったが、今後も重要なテーマになりそう。

■今も私たちはパラダイムの中にいる

問い方で見える世界が変わる。起きている事象が変わるわけではなく、私たちがそれをどう解釈するか? 今も私たちは何らかのパラダイムの中にいる。文献を読むときにもそれがどのようなパラダイムの中で書かれたかを理解することは重要。

■確信を持てなくするのが人類学の仕事

前提を問い直すのは困難なことだが、無自覚でいることと、自分が何かの前提に立脚していることを分かってものを見ることには大きな差異がある。「確信を持てるようにするのが他の人たちの仕事、確信を持てなくするのが私たちの仕事です」(クリフォード・ギアーツ)

■社会学と人類学

二つの境界は無くなる方へ向かっている。社会学の質的なフィールドワークと人類学はテーマもフィールドも似ている一方で、社会学には統計や理論系の分野もあり、重なり合いつつも完全に一致はしない。人類学の大きなディシプリンはフィールドワークにある。比嘉さんとしては、社会学が社会の存在を前提とする一方で、人類学は社会や国家の自体を疑うアナーキーな面があるとのこと。「人類学者はフィールドの中で哲学をする」(菅原和孝先生※インゴルドの本にも同様の記載あり)

■アートと人類学、気づかいの倫理

ヴォネガット、ル・グウィン、上橋菜穂子、岡本太郎、ジャンリュックゴダールなど、人類学の影響を受けた作家は少なくない。アートと人類学には、具体的な手続きは違うが、色んなレベルで共通点を見出せる。他のありうる世界/外側/オルタナティブを提示し続けるのがアートだとすると、それは人類学も同じ。

【おわりに】

DAY2の振り返り

第三回のゼミで比嘉さんが話していた「文章にすると、自分の認識や解釈が入り込む」ということは、箇条書きのメモを文章っぽくまとめようとするだけでも実感できた。そしてそれがスキル的にも心理的にも得意ではないからこそ、これまで仕事でライター業をやりながらも、個人的な文章を公開しようという気にならなかったのだなと。自分の中に沈殿しているその苦手意識はそれ自体はネガティブなものだが、向き合うときの戸惑いや不安自体も、人類学的アプローチにおける観察の対象だと思うと楽しめそう。
 
「気づかいの倫理(ケア)」がアートの文脈で登場したことはもう少し深く考えてみたい。オルタナティブ(=他者)に向き合うことが気づかいであり、「すべての人にとって居場所がある世界を築く方法」になる…と言えるのか?

DAY2の振り返りを振り返って(2023/11/1)

個人テーマのフィールドワークに少しずつ着手しているが、この回で何度か話題に上った“オルタナティブ”は、キーワードの一つとなっている。オルタナティブに対して「サンプリングではなく、いかに真剣に考えられるか」という問いに、これから自分なりの答えを出していかないといけないのだなと改めて思った。

方向性は定まりつつあるものの、どうしたら参与観察と呼べるようなリサーチにできるかはまだ見当がついていない。



※以下はDAY2の課題図書を読んで、事前に準備していた自分の感想・質問

【印象に残った箇所】
① P6/生きることとは、どのように生きるかを決めることであり、つまりどの瞬間にもいくつもの異なる方向へと枝を伸ばす潜在的な力を持っているのだが、どの方向も、他よりふつうでも自然でもない。
 
<感想>
物語的な人間観/人生感とは異なる見方で、実際の人生はこっちだよなぁと思った。「どの方向も、他よりふつうでも自然でもない。」の一文によって、決断の重要性を語るような自己啓発的なメッセージとは異なることが分かる。むしろ元気が出る。
 
 
② P50/生を進めながら人間存在をつくり続けることは、けっして終わることのない任務である。私たちは絶えず自分自身を創造し、互いを創造し合っている。この集団的自己形成の過程が歴史である。
 
<感想>
ここで言う「人間存在をつくり続けること」の意味は完全には捉え切れていない気がするが、生きる=(自分自身を/互いを)創造する ことであり、その過程が「歴史」であるという話は、個人的に歴史に対して抱いている“古い”、“縁の遠い”イメージを変え得るものの見方だと感じた。
 
 
③ P148/最後の手段として人類学者を駆り立てるのは、知識を希求することではなく、気づかい(ケア)の倫理である。私たちは、他社にカテゴリーや文脈を割り当てたり、他者を説明し尽くしたりすることで、他者を気づかうのではない。彼らを目の前に連れてくる時に私たちは気づかい、彼らは私たちと会話し、私たちは彼らから学ぶことができる。それが、すべての人にとって居場所がある世界を築く方法である。私たちは皆で一緒に世界を築くことができるのだ。
 
<感想>
「気づかい」「会話」「居場所」といった単語と、温かさを感じる文章全体に、小説家のカート・ヴォネガットが頭に浮かんだ。ふと一応繋がりがないか調べてみたら、大学で文化人類学を学び研究者を目指していたそう。嬉しい発見。
 
 
【わかりづらかった箇所やみなさんと議論してみたい箇所、質問】
P137/人類学は社会学とどう違うのか?
 
ここから展開されている考察について、もう少し理解を深められたらと思っています。
いま国内だと、両者はどんな関係と捉えられているか?人文学(人文科学)・社会科学において、人類学がどのような位置づけとなっているか?なども、お話をお聞きしたいです。


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