見出し画像

DAY3-1|メッシュワークゼミナールの記録(2023/09/30)

メッシュワークゼミナール第2期「人類学的な参与観察によって問いをアップデートするトレーニング」における活動の記録。


【課題図書】

『西太平洋の遠洋航海者』ブロニスワフ・マリノフスキ 著、増田義郎 訳(講談社学術文庫)

この目標は簡単にいうと、人々のものの考え方、および彼と生活との関係を把握し、彼の世界についての彼の見方を理解することである。われわれは人間を研究しなければならない。人間のもっとも本質的な関心、いいかえれば、人間をつかんでいるものを研究しなければならない。文化が異なるにしたがって、価値はすこしずつ異なってくる。人々は異なった目標を追い、異なった衝動にしたがい、異なった形式の幸福にあこがれる。

※この目標=「民族誌学者が見失ってはならない最後の目標」

出典:『西太平洋の遠洋航海者』- 序論 この研究の主題・方法・範囲(p.66)

【印象に残った話】

■「彼らの合理性」を見出したマリノフスキ

私たちは実用性を重視しているようで、実際には実用性だけでモノと付き合っているわけでもない。実用性とそうではない機能が同じ文脈の中に織り込まれたものとして「クラ」を明らかにしたことが、マリノフスキが読み継がれている理由。私たちの価値観における合理性とは違う、社会的な意味を持った彼らの合理性をマリノフスキは見出した。

■インタビューにおける政治性

「こちらの観念が相手の考え方のなかに流れこんでいるから、住民たちの見解も歪曲されているだろう。」(p.350)それぞれの社会に色々なコミュニケーションのスタイルがある中で、質問する⇔答えてもらうというやり取りにも、政治性があらわれる。まったく違う言語の人を相手にしても、そのことを意識していたことは、マリノフスキの時代において先進的だった。

■人類学者に求められる創造的な能力

私たちが分かりやすく因果関係を説明できないものがある。全体を見てパッと知覚するような感覚、人類学者が人びとを理解するときの実証主義とは違う感覚。マリノフスキのいう「不可量部分」を見るために求められるのが、“創造的な能力”だろうか。

■対象を客体化しないために注意深くいる

マリノフスキ以前の現地の人びとを“野蛮”とみなす態度も、反動的に美化する態度も、対象を客体化して、私たちとの連続性を断絶してしまうのではないか。ふつうサイエンスでは対象に愛着を持つことを重視しないが、リスペクトがないとマリノフスキのような参与観察はできない。

■フィールドノートに書き出す=自分との対話

電話さえ繋がらず、360度現地の人に囲まれた生活の中では、フィールドノートに書き出す以外に吐き出す場所はない。それは自分と対話する行為に等しい。忙しく感情が揺れ動く中で、書き出して「何なんだこれは?」と向き合いつづける時間を持つことが重要。

■人類学者にはそれぞれのフィロソフィーがある

なぜ人類学をやるのか?その答えとしては、マリノフスキにとっての「幸福」や、インゴルドにとっての「生きている」ということへ向かう問いのように、人類学者それぞれの思想がある。同じ問いを持つ人は哲学にもいるかもしれないが、本質的な問いに迫るために、人類学は色んな人と出会いながら認識を変えていこうとする遠回りな方法をとる。

■応用的な人類学の歩みとメッシュワーク

1990年代頃から応用的な人類学はあったが、実務の領域に進出してきたのは最近の話。デザインなどと接点を持ちながら進み、面白い所に辿り着きつつあるそう。人類学は100年ほどの歴史の中でも、モノの見方が変わってきた学問。比嘉さんとしても「応用的な人類学についても論文を書いていかないいけないとは思っている」とのこと。

■つじつま合わせとしての呪術

呪術ほどではなくとも、迷信やおばけの存在などに、因果関係を見出す例は少なくない。また、科学への信仰も似たようなものかもしれない。起きている現状は同じで、説明や解釈の仕方はそれぞれの社会による。逆にトロブリアンド諸島の呪術のように、それが広く共有されている社会は、すごく高度な社会とも考えられる。

【おわりに】

DAY3-1の振り返り

平日もゼミで学んでいる内容を思い出し、その目で自分の仕事を捉えてみようと試みるが、作業に没頭しているとあっという間に観察者の視点はどこかに行ってしまう。そっか、日常でもフィールドノートを書けばいいのか、と気づく。…とすると、日記をつけてる人は、それはもはや日常をフィールドとした参与観察をしていると言ってもいいのかもしれない(?)

DAY3-1の振り返りを振り返って(2023/11/2)

DAYの振り返りの振り返りで、ゼミでの時間が「ずっと楽しい」などとのんきなことを書いたが、DAY3は『西太平洋の遠洋航海者』を含む2冊の課題図書があって、読み切るのに必死だったことを思い出した。

『西太平洋の遠洋航海者』は1週間ほど前から読み始めていたが、1週間を切った時点で、どうやっても普段の読書のペースでは間に合わないことに気づいた。新しい読み方を身に付けようと、一定のスピードを保って文字だけを追っていく(意味を追わない)ような方法も試したものの、そうやって読んだ場所は読み返しても、まったく頭に残っていない。

改めてページをめくってみると、最初に読んだときとはまた違った印象がある。以前はモノと行為についての膨大な記述に圧倒されていたが、いま読むと、モノと行為のもつ“意味”に関する記述の量に驚く。そしてそれらの意味をどのように読み解いていったのだろうということが気になってきた(読み直したら絶対に書いてそう)。いつかまたちゃんと読もう。




※以下はDAY3-1の課題図書を読んで、事前に準備していた自分の感想・質問

【①印象に残った箇所】
P.66/これらの人々が何をよりどころに生きるかを感じ取り、彼らの幸福の実質が何であるかを理解したいという気持をもたずに、彼らの制度、週間、法律を研究したり、行動や心理を調べることは、私に言わせれば、人間の研究から期待しうる最大の報酬を失うことである。

感想:「幸福」という言葉が出てくる意外性を感じたが、その後『フィールドワークへの挑戦』の「棚田を<守り>する人びと」を読んで、ここでいう幸福にあたるものだと感じた。自分の抱いている、幸福という言葉に対する解釈をもう少し広げてみたい。

P.349/次のようなばあいに、かならず呪術がもっとも強力に働くことがわかるーー決定的に重要な問題が起こったとき。はげしい感情、情緒が呼びさまされたとき。…もっとも慎重な準備と努力もないがしろにするなにかがあることを、人間がどうしても認めざるをえないとき。

感想:P.311の「つじつまあわせ」という表現と合わせて、呪術を感覚的に理解する手がかりになりそうだと思った。

P.436/マリノフスキによって開かれた実証的人類学研究は、いまや実践者みずからによって探求される内在的人類学の段階に入ったのである。

感想:比嘉さんと水上さんがメッシュワークの活動で、一般の人に『人類学者の「目」をインストールする。』ことを目指していることも、この延長線上にあるのかなと感じました。

【みなさんと議論してみたい箇所】
P.349/上記引用箇所について
「つじつまあわせ」をしない社会は存在するのだろうか?と気になった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?