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メリー産の羊

ただ世界は『1匹の子羊を探すために99匹の羊が危険に晒されるようなことがあってはならない』という仕組みで、歴史が始まってずっとこちら動いている。

『そろそろそういうところも変えて行こう!』

いや、変えてはダメです。それは1匹の羊が99匹の羊の面倒を看ることが出来ないからに他ならないし、99匹の羊もそれを望んではいないからです。

『あの子羊を探してやってくれ!』という特別な思いは一様に理解はするが、そのために99匹を絶対に犠牲にしてはいけない。

もし『1匹か99匹かどちらを取るか?』という状況になったとすれば、断腸の思いで99匹を守る。もしその選択が出来ないのであれば、99匹どころか100匹すべてを無に帰す危険性すらも内包しているからだ。

『イエス・キリストは99匹を残して1匹の子羊を探しに行くと言ったぞ?』

それはユダヤの律法至上主義者たちが、イエス・キリストの話を聞くために多くの人が集まってる中に『罪人』や『徴税人』など『ユダヤの律法から逸脱する者』までもが紛れ込んでることを『これはアンチの集会じゃないのか?』と危険視した事に対しての言葉であります。

当時のユダヤの律法から逸脱して生きる人たち、税金をピンハネする徴税人を『(ユダヤの律法から)いなくなった1匹の子羊』に喩えて、『帰って来たんだからむしろ喜ぶだろ?』と、自分が話す言葉は『ユダヤの律法の範疇である』ということも含めてユダヤの律法至上主義者たちをぎゃふんと言わしめたロジックであります。

一方、耳心地は最高に良い『この1匹を助けるために』という言葉、北朝鮮に拉致された日本人を奪還も出来ないでいるのに、一体何の説得力があるのか全くもって理解できない。

『親ガチャ』

城の中で生まれてドラゴンの剣とドラゴンの鎧が初期装備で付いてくるパターンもあれば、沼地の真ん中に生まれ棍棒と布の服ってパターンもあるでしょう。同時にクエストクリアに向けて動き出しても、イベントの進み方がまるで違う。

だからって沼地でスタートした人が必ずドロップアウトしてしまうとは限らないし、最初から強すぎて飽きるパターンだってあると思う。

『沼地で生まれた』境遇はアナタにとっては不幸に見えるかも知れないが、だからと言って必ず人生までもが不幸であるとは限らない。

『不幸な境遇であったために道を誤った。』という、その決めつけが『傲慢』であり『不幸』である。

きっと自分に酔ってるんだろうから声は一つも聞こえないと思うけど、『世界の2%だけが儲かる仕組みなんかおかしい!』と言うアナタのやってることは『1匹の羊のために99匹の羊に不自由を強いる』ことである。

全体主義者だ排他的だと好きに罵ればいい。どうあれやってはいけないことは絶対にやってはいけない。

アナタが危険を顧みず人生を賭けて1匹の羊を探しに行くことを誰も止めはしない。アナタの正義を全うすればいい。

同じくアナタの正義を他人に強要してはならない。これでフェアだ。

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