偶然SCRAP#52: Turner Prize 2019: アート界は競争の文化に終止符を打つことはできるのか?

(追記:2020年1月1日)
年に1回のイギリスのアート界のアカデミー賞「ターナー賞」。これは抑えとこうということで読んでみた。

「競争の文化に終止符を打つ」?とタイトルにある。ターナー賞は4人のアーティストの候補者が選ばれて、その中の一人が受賞するのだけど、どうやら賞ができて35年目にして初めて候補者4人全員で共同受賞ということになったそうだ。

社会問題を取り扱うアーティストの作品。「誰かが受賞したら、受賞しなかった誰かが取り扱った社会問題はそれ以下だと誤ったメッセージが伝わっては問題だ」的な書簡を候補者たちが審査員たちに宛てて、それが受け入れられた模様。

「それを言っちゃあ、それこそアカデミー賞はどうすんのよ?」というのもあるかもしれないが、そこはザ・ショー・ビジネスの上に成り立っているアカデミー賞と、そこから一線を引いている気持ちのアートに違いなのだろうか。受賞のあり方自体も問うちゃう。エンタメでそれをしたら企業たちのプロモーションとかに影響あるだろうけど、アートだったらそこまでじゃないからかもね。

風が吹いたら飛ばされちゃう。連帯しよう!となるのは、そうだろう。こういう動きは、最近あって、受賞したアーティストが賞金を他のアーティストたちに分配するとかあるらしい。ある意味、絶滅危惧種なのかもしれない。この前のベルリンの不動産価格が高騰している記事を思い出す。クリエイティビティよりも利益の話。

あとは、この勝者がいない競争という比喩として、「不思議の国のアリス」のドードー鳥のレースが引用されていたけど、どっかでも「不思議の国のアリス」が引用されてて、そういえばちゃんと「読んだことないなぁ」と思った。「クリスマス・キャロル」を書いたチャールズ・ディケンズの「ディヴィッド・コパフィールド」をこの前初めて読んだけど、深かったぁ。やっぱ時代の荒波を越えてきた古典って、とんでもない力を持ってる。次は「不思議の国のアリス」を読もっかなぁ。

(初投稿:2019年12月8日)
イギリスのアートマガジン「Frieze」に掲載のオピニオンを引用紹介します。

Opinion/
Turner Prize 2019: アート界は競争の文化に終止符を打つことはできるのか?
BY TOM MORTON
6 DEC 2019

今年、全ての最終選考候補アーティストを共同受賞者としたーこの(制度的に認められた)転覆行為をどう考えるべきか?

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Nominated artists for the Turner Prize 2019. Courtesy: Turner Prize; photograph: Getty Images/Stuart Wilson

Lewis Carrolの小説「Alice’s Adventures in Wonderland [不思議の国のアリス]」(1865)の中で、dodo [ドードー鳥]は、おかしなレースを監督する。「(適当な)円」に並んで、参加者は「好きなときに走り始めて、好きなときに終わるので、このレースがいつ終わるのか分からない」。30分後、飛べない鳥は、急にレースの終わりを宣言する。そして、「じっくりと考えた」あと、発表する。「全員勝ち。だから皆に賞品を与えよう」。キャロルの洞察力が生んだこのゼロサムゲーム(特にイギリスの小選挙区の議会選挙)のナンセンスな皮肉は、近年新しい形となって現れた。ターナー賞の35年の歴史の中で初めて、一人ではなく、4人全ての候補者に賞が授与された。

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Tai Shani, DC Semiramis, 2019, installation view, Turner Contemporary, 2019. Courtesy: Turner Prize; photograph: David Levene

一つの背景として、12月3日の授賞式の前、Lawrence Abu HamdanとHelen CammockとOscar MurilloとTai Shaniの4名の候補者が審査員たちに宛てて、自分たちを一つの「グループ」と考えて欲しい、つまり唯一の勝者はいない、というレターを送った。レターの中で、彼らは、「私たちが取り扱っている政治問題は、それぞれ大きく異なっている」と主張した。「私たちは、それぞれの政治問題を競わせるようなこと、つまりどの問題が他よりも重要だとか、大きいとか、注目に値するといった含みを与えてしまうことに問題に感じる」。「私たちは連帯と協調が分断された時代に、連帯し協調した力強い声明を出す。この声明は、それぞれの作品の中にある政治的そして社会的な詩学を表したものであり、また私たちはお互いの詩学を賞賛し、尊重している」。審査員たちはこの声明を承認し、アーティストの要求に応え、キャロルのドードー鳥のように、全ての最終候補者を共同受賞者とした。

この(制度的に認められた)転覆行為をどう考えるべきか?過去の事例の真似なのか。例えば、2016年にHelen Martenがターナー賞とHepworth Prizeの賞金を彼女の仲間でもある最終候補者たちとシェアすると決めた件や、その前の年にTheaster GatesがArtes Mundi賞を受賞したときに「このクソ野郎を山分けしようぜ!!」と宣言した件がある。私たちは、今年のBooker Prizeでの出来事の視点からも考えることができるかもしれない。その審査員は(主催者側からの頑なな指示に反して)Bernadine Evaristoの小説「Girl, Woman, Other」(2019)とMargaret Atwoodの「The Testaments」(2019)の両者に受賞させた。この動きは、場所によっては、二人の同等な価値のある候補者から一人を選ぶことを拒んだと、捉えられた。他のところでは、下手なでっち上げだと見られた。というのも、Evaristoがあまり知られてなかったということではなく、受賞する初めての黒人女性は、世界的な名声を持ち、すでに「the Blind Assassin [昏き目の暗殺者]」(2000)で受賞していた白人の作家と共同受賞しなければならなかったとするものである。逆に、もし受賞レース的な文化をきっぱりと拒否していなければ、少なくとも候補者と審査員からその決め方について質問を受けることになっていただろう。

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Oscar Murillo, Collective Conscience, 2019, installation view, Turner Prize 2019 at Turner Contemporary. Courtesy: Turner Contemporary; photograph: David Levene

frieze誌の第一号の中で、1991年のターナー賞について、Stuart Morganが次のように考察していた。「アーティストたちは、アーティスト同士で競っているのではなく、それぞれが自分自身、そして過去と戦っているのだ」。現代アートに少しでも興味を持つ人なら誰でもこれが真実だと知っているだろう。ある作品を別の作品と比較して判断することに本来的な意味がない場合がある。リンゴをオレンジと比べるというよりも、リンゴをシマウマや平行四辺形と比べるのに近い。ターナー賞が最終候補者達に与えるものは、彼らの作品に対する確固たる評価ではなく(おそらく美術史でさえそのようなことはできない)、現時点で、少なく、そして不当に分配された資源を獲得する機会である。お金、そして何よりも注目である。私自身たくさんの賞の審査員を務める中で、審美性や批評性の高さよりも駆け引きの中に、もっと多くのものが含まれていると気づいている。特に、この勝利が、例えば、一流のギャラリーによって代表される画家に相応しいのか、それとも臨時の助成金や不安定な単発の講師の仕事、そしてこうした酸欠状態を何とか生き延びているだろうパフォーマンス・アーティストに相応しいのか、という(しばしば記号化された)配慮が含まれているのだ。

ターナー賞の審査員たちにとって、間違いなく新たに加えられている問題がある。それは、かつては急進的で、今や老舗感が漂うブランドの新鮮さを、いかに維持するかということである(一見カテゴリーミスに思われた2015年のターナー賞を建築家集団のAssembleに授与した裏には、こういった意図があったと広く考えられている)。これが、一種の人の良いご都合主義に過ぎない、あるいは義務の怠慢だ、と2019年の審査委員会を非難すべきでない理由なのだ。審査員たちが、その「collective [グループ]」から、「共通性と多様性と連帯」に報いて欲しいという訴えを書いたレターをもらったとき、彼らがホッと息をついたのは想像に難くない。しかし、彼らはまだやるべきことが残っている。自分たちの決断が、次回以降のターナー賞が、時代遅れな状況を進行させてしまうのかどうかを見守ることだ。今回のターナー賞の公式見解である「全員が勝者。従って、全員に賞を授与する」は、特殊な2019年の事例として扱われるに過ぎないのか。さもなければ、私たちは、コンペというものを―競争好きの人もいるけれども―絶滅時計の中に加えるべきなのだろうか。

TOM MORTON
Tom Morton is a writer, curator and contributing editor of frieze, based in Rochester, UK.

訳:雄手舟瑞

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