カフェで彼女は
今日も、いつもと同じ一日がやっと終わった。
私は疲れた体でいつもと同じように会社から駅までの道を歩いている。
時刻は夜9時になるところだが、これから遊びに出ていく若者たちで街は活気づいている。
疲れたな……。
そうだ、一杯だけワインを飲んで帰ろうか。
会社からの帰り道にはいくつかのカフェがある。ケーキやパルフェが華やかな夜お茶カフェ。同僚とたまに飲みに行くクラフトビールカフェ。深夜までやっている静かなブックカフェ。
今日行こうと思ったのは、私一人でも居心地よくいられる、適度な広さの適度にざわざわした店。そこで、ワインを飲みながら軽く食事をしてから帰ろう。
そこは適度に広くて、夜でも明るくて、グループでも一人でも受け入れる度量のあるカフェだ。老若男女問わず客が来訪し、外のオープンエアの席を中心に外国人も多い。
ワイン、自家製のジンジャーエールやスムージーなどの飲み物のほか、サラダや軽いスナック、サンドイッチなど、食事も楽しめる。名物は生ハムたっぷりのサラダや多種類のチーズの盛り合わせ、バーニャカウダ、焼きたてのパニーニなど色々ある。
一人や二人組の女性客が多いが男性客もいるし、合コンしているグループがいたり、深刻に話し込むカップルがいたりと、間口が広い。
私は店のドアを押し開いて中に入った。
通されたのは窓際の二人席で、店内もテラスも見渡せるが、入口からは死角に入るので、妙に隔絶されたプライベート空間の趣きがある。
席に着くと私はメニューを点検し、赤ワインのグラスとサラダとチーズを注文した。
今日もいつもと同じ一日だった。私は退屈な日常に倦んでいる。
満員電車に乗って、いつもと同じように定時前に出社して、頼まれた仕事を粛々と片付け、お局様に断ってランチに出かけ、仲良しの同僚と愚痴や噂話をしながらランチを取り、時計を気にしながら急いでオフィスに戻る。
ランチから戻ると夕方までみっちり仕事をして、終わったからさあ帰ろうと思ったら、出先から戻った営業マンに仕事を頼まれ、今日も結局この時間まで残業になってしまった。
こんなことがやりたかったはずじゃないのに……。
私の仕事は他の社員たちの事務サポートで、いろいろな人と関われるし感謝されるのでやりがいはあるとは思うが、私自身の裁量でできることは少ない。頼まれた仕事は断れず、つねに事務職の先輩や営業マンの意向を気にしなければならない。
決定的に嫌ということはないけれど、毎日ストレスが多い。
でも、どこにも行けない自分もいる。
他に私に何ができるのかといえば、事務職以外に経験はなく、転職や職種転換も難しい。今仕事を辞めてしまえば、次があるのかも不安だった。
「疲れたなあ……。」
知らないうちに小さくつぶやいていた。
思わず知らず、ため息がこぼれた。
そこに、ワインが運ばれてきた。
私はグラスを持ち上げて、きれいな赤い色を電灯に透かすと、小さく心の中で、
(お疲れさま、カンパイ)
とつぶやいた。
何も食べずに胃に流し込んだワインは少量でもよく回った。
ふわりと頭が軽くなって鼻の奥に感覚が抜けて行く。さきほどまで張り詰めていた、こめかみ辺りの緊張がゆるむ。
ゆるゆるとストレスがほどけていくように感じて、一刻目を閉じ、再び目を開けると、世界が少し違って見えた。
先ほどまで思い煩っていた仕事のことがどうでもよく感じられてきて、思考が拡散する。
この瞬間が心地よい。
ふと辺りを見回すと、私のように一人で来てワインやお茶や軽い夕食を楽しんでいる女性客が多くいた。
皆、一日闘ったんだろうなぁ。そう思うとなんだか親近感が湧いてきた。
そこに、先ほど注文したサラダとチーズが運ばれてきた。私はワインを楽しみ、軽快で美味しい一人の食事を楽しんだ。
その時、私の席と通路を挟んだ隣のテーブルで一人ワインを飲んでいた女性のもとに、友人らしい女性がやって来た。会うのが久しぶりなのか、にこやかに再会を喜び合っている。
見るともなしに様子を見ていると、片方の女性が何かフライヤーのような紙を出して、二人で何やら相談を始めた。
二人とも終始笑顔で、時折大笑いして、とても楽しそうに見える。
何を話し合っているのかと、すっかり気になってしまい、私は全然聞いていないという顔をしながらこっそり隣のテーブルの会話に耳をそばだてた。
断片的に聞こえてきた内容からすると、二人は何か社会を変えるようなプロジェクトの計画を立てているらしかった。
(なんだかいいな…)
私にも夜お茶をしたり、一緒にワインを飲みに行く友人はいるけれど、会って話すことといえば仕事の愚痴や噂話が多くて、楽しいけれど、それはその場限りの楽しさだった。
隣の二人のように、何か新しいものを作る相談というのは、最近はあまりしていなかった。
でも、そういえば、以前はしていたこともある。私は思い出した。
二十代の頃、カルチャースクールに通っていて、そこで仲良くなった友人の女性と、いつか一緒にカフェを開きたいねと話していたことがあったのだ。
一時期はとても盛り上がって、二人で熱心に計画を立てたものだが、いつの間にかうやむやになり忘れてしまっていた。
彼女、どうしているかな。
改めて考えてみると、私はカフェを、やっぱりやってみたい。
様々な事情や要求を抱えて飛び込んでくるお客たちを受け止め、受け入れるカフェ。私みたいな疲れた女性が心を癒せるドリンクや料理を供するカフェ。
その時、隣のテーブルの二人組が立ち上がった。口々に、今日は良かったね、と言い合っている。
それから二人はとても楽しそうに話し合いながら会計をすると、店を出て行った。
私は、変り映えしない生活に文句を言って疲れきっていたのは、自分のせいでもあるのだと気が付いた。自分で状況を変えることが必要なのだ。
その端緒は私も持っている。彼女らと同じように。
そう思いつくともう、一刻も早く何かをやってみたくなった。
まずはカフェ友達の彼女にメールしてみよう。
私は携帯電話を取り出し、彼女に宛ててメッセージを打った。
「最近どうしてる? またお茶しながらカフェ作りの話をしない?」
この一歩から、違う明日が生まれるはず。
私は新しい気分でカフェのドアを押し、わくわくする夜の中に一歩足を踏み出した。
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