支配者のユピテル

ユピテル。それは支配者であった。幻想の色を携え、影のような体を持つ不滅の者。それがどんな過去を持ち、なぜこの国に君臨しているのかを誰も知らない。生まれ持った名前も、顔も、全てが不明だった。ユピテル。名前は公的なものではなく、それに師事した男がガニメデであったが故のレトリックに過ぎない。

国内外、過去未来現在。全てがユピテルの掌握下にあった。永遠の平静が、平穏が、均衡が、それの手によって成された。かつて、誰もが望み、そうあれかしと願われた世界。ユピテルは理想を具現化させた。しかし水鏡の静寂は、破滅を、滅びを、衰退をもたらした。ユピテルは万能だった。国内外、過去未来現在。全てがユピテルの掌握下にあった。その全てのどこを切り出しても解決の糸口がないことを、ユピテルは知っていた。今ある治政が最高で、隙間(改善の余地)のひとつも無いことも。

理想の世界。滅びの運命。幻想の色。温い風吹く夜明け前、ひとつの結論へたどり着いたユピテルは己の弟子の呼び寄せた。金の目を持つ男。支配者であるユピテルが唯一そばに置いた男。比べようもないほど完全だった世界に生まれ落ちた小さな綻び。『特異点』。彼は、彼だけはユピテル手ずから繕った。”ユピテルの支配から唯一逃れ得た男”。ユピテルの視線を受け、男は困ったように首をかしげる。かつての自分がこの世界についた傷だったことなどもう知覚することもできないのだろう。それでいい、とユピテルは思っている。ユピテルはそれが均衡を崩す行いだとわかっていながらも、その男の『縫い目をほどいた』。静寂の平穏に未来はない。狂乱の過去に用はない。するすると糸が抜ける。目指すのは夜明けのまどろみではなく、明暗混ざりあって一体となった、より力強く不確かな未来。漂白されたこの地にはない答えが、混沌の向こう側のどこかにある。それを探す任を、ユピテルは男に与えた。

時空の裂け目が現れる。ユピテルは更に糸をほどく。穏やかでぬるま湯のようでさえあった空気の中に開いた裂け目は不自然そのもので、はっきりと際立つ輪郭はまどろみの世界を管理してきたユピテルにある種の醜悪さを感じさせた。おそらくこれはひとつの終わりで、きっとここが始まりだ。額へ、指へ。ユピテルは旅立つ男へ口づけた。人ならざる唇は柔い体に祝福を吹き込む。裂け目は男を飲み込み、ここでないどこかへ、ユピテルの支配下でないどこかへと運んでゆくのだろう。ユピテルは目を瞬き、もう一度額に口づけた。

男を送り出し、一人きりになったユピテルは、空間に開いた裂け目を元のように端から閉じた。男のいなくなった今、この世界についた傷は目の前の醜悪な穴ひとつきりだ。そしてそれは閉じつつある。このまま手を止めねば、じきに跡形もなく消え失せるだろう。世界はまた一歩望まれた形に近づく。それはある意味ではとても喜ばしいことなのだろうと思われた。ユピテルは理想について思いを巡らせる。完全を手にし、永遠の停滞と衰退に沈み行く理想郷を。そうして少しだけ残った縫い代を、ユピテルはぎざぎざに縫い閉じた。

(続く)

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