道化師のパトリシア

パトリシア・ルージュ。それが女の名前だった。道化師とは語り部で、語り部とは記憶装置である。聡明で明晰な頭脳を持つパトリシアは語りを待つ言葉達を記憶していく。それがパトリシアの仕事だった。記憶していく。存在を。見たものを。出来事を。彼女は魔法使いであった。

パトリシアを見いだした女は、忘却を操り、既知を曖昧に押し込める力を持っていた。それが女の仕事だった。それこそが女の仕事だった。女もまた魔法使いであった。女は忘れさせる。パトリシアは忘れない。女は忘却に押し流す。パトリシアは胸に留め覚えている。同じ魔法使いであり、影響を受けないパトリシアだからこそ務まる仕事だった。

パトリシア。それがパトリシアの名前だった。パトリシアは忘れない。王宮の顔ぶれが入れ替わっても。上司の女が元と違う名を名乗り、そして忘れても。公務によってパトリシア自身が蔑称で呼ばれることになっても。それが蔑称であると誰にもわからなくなってさえ、パトリシアが自身の名を忘れることはない。パトリシア・ルージュ。人間社会より出でて王宮に暮らす古の魔法使い。麗しきロゼッタストーン。パトリシアは記憶する。保持する、語る。能動的に、あるいは、受動的に。

彼女はずっとそこにいる。上司の女と同じように。長い衣を纏った背の高い女達は永い時を過ごしていく。女がシステムであるのと同じように、パトリシアもまたシステムであった。王宮の中枢で、永遠は続く。延々円環、ぐるぐると。

変化は訪れない。終わりは訪れない。そんなものはないと知っている。それらを許容し呼び込むはずの揺らぎは永きにわたる年月によって失われた。パトリシアは忘れない。パトリシアはもはや自身を知るもののない王宮で一人、誰かに呼ばれるのを待っている。

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