大雨で出られないSF

陰鬱。淫雨。インサニティなインナースペース。フローリングは硬く、部屋は暗く、ガラス窓は大声で叫ぶ。開けろ。開けろ。

サッシを叩く水音。がつがつと殴りつける振動。しめっぽい室内と揺れることのないカーテン。表面が僅かに濡れた椅子の鉄脚。ここには誰もいない。
俺は息を潜めて机にもたれかかっている。ひんやりした天板に伏せって、耳をつんざく悲鳴に閉口している。声を出したってかまわない。歌うのだって良いだろう。どんなに物音を立てたってがなる声が消していく。だから、何を言ったって問題は無い。ないのだ。

カチカチ。カチカチ。カチカチ。コチ。壊れた時計の秒針は一秒に一度痙攣する。脱臼した分針はだらりと垂れて僅かに揺れる。開けろとわめく声の元では回る音は聞こえない。こうしてどれくらいたっただろうか。べつにどうだって良かった。ここには誰もいない。扉は閉まっている。風は吹かない。花の世話をしないと、とぼんやり思った。きっと、この嵐で散っていることだろう。元に戻してやらないと。元に。

花。花だ。花は重要なものだ。自分のいる温室において、それはとても重い意味を持っていた。色がある。形がある。葉の緑とは一線を画した多種多様なシグナルを放つ。それをなにかに役立てようという話だった。指令を下す上は、美しいものが好きだ。そして好奇心に満ちている。花とは素晴らしいものらしい。この温室いっぱいに広がる生き生きとした木々に匹敵すると。だから、そういう事になった。そういうことになって、自分はこの温室で花の担当になった。生まれたコロニーを離れて幾星霜、ここでこうして項目の一つ増えた仕事をこなしている。

葉は揺れる。自分は暖かいということがどういうことだかわかる。涼しいということと、寒いことの違いもわかる。ここには四季がある。実をつける木々があり、そのサイクルに合わせているからだ。一年という周期がどんなものであるのかここに来て初めて知った。季節という言葉の意味も。温かな雨と冷たい雨が交互に降る、ここは静かな場所だ。

花の世話をして、果実をもぎ、空を覆う冠のような木々へ水をやる。温室を埋める木の世話も、もちろん自分の担当だった。ここには自分しかいない。花がたくさん咲くのが健康である証左だと知ったのはいつだったか。それまで樹木の生命力を計るのは茂る葉の緑だった。しなやかに伸びた腕の先へ青々とした葉が広がるのを幾度もみた。一番見事なものは丘の上に立つ大樹だ。自分は世話の合間に木陰から青い天井とランプを透かし見た。それがお気に入りだった。木々はシリケートの土に根を張り、育っていく。花の世話をするまではそればかりが植物なのだと思っていた。花は違う。あれらのもたらすシグナルとしての効用は十分と言って良かった。

つぼみがつく。ぎゅっと硬く締まっているのもあれば、ふわふわと柔らかくて頼りないのもある。それらは温度の移り変わる時期に現れる、芽というものに似ていた。たくさん実ったそれは、摘み取って食んでみれば、冷えた水の味がした。露に濡れた葉とも、割り開いた果実とも違う、新しい驚きがそこにはあった。甘く柔らかなつぼみは口の中で簡単にばらばらになって、後には主脈のような筋がたくさんと、見慣れない粒のようなものが舌に絡んだ。

川に水が流れるごと、土が雨に濡れるたびに変化は訪れる。捻れていた細い筒、拳のような球、見慣れない茎、多種多様な花のつぼみたちはほどけていく。ぴったりと閉じていた器はそれが当然と開いていく。くしゃくしゃに見えた花弁はピンと張り、恥じらうように、あるいは誇るように姿を見せる。毎日が小さな驚きだった。繊細な花弁を損なわないよう水をやり、初めて見る色に惑う。

水をやる。水をやる。花は落ちる。水をやる。花弁が散る。匂いを嗅ぐために根元を揉み、またばらばらにしてしまった。水をやる。花は落ちて、戻らない。

妙だ、と思った。開いたばかりの花が萎れて行く。葉も色づいていないというのに。水のやりすぎて腐っているのか、と思った。だから水をやるのを少しの間止めた。温室についているスプリンクラーの栓を閉じれば難しいことではなかった。それが良くなかったのか。あるいはそれよりもっと前に運命は決まっていたのか。知る術など無い。わかるわけもない。栓を閉じたあとしばらくして、変化は現われた。空気に煤けたような色がついて、花弁を揉まずとも鼻をくすぐる匂いがして、木々に妙な印が現われた。

花の腐り落ちたあとに残った葉脈のようなものに、花弁よりいくらか暗い色の、粒のようなものが現われた。粒は小さく、硬い。最初は次のつぼみがついたのかと思ったが、それらが元のようにほどけることはなかった。そうしている内に色が変わり、あるものは膨らみ、あるものはそのまま、枝から外れ、花びらと同じように土へ落ちた。地面に色をつけるのを見て、腐っている、と思った。

ほどけるのに失敗したのか、と思っていた。黄色い空気は砂埃のようなものだったのか、雨の中にいるときには感じられなかった。木の世話をした。気付けばあんなに咲いていた花はつかなくなっていた。次はないかも知れない。それとも季節が変わればまたつくのだろうか。今回とは違ったようなものが、一回目と、二回目で形を変えて順番に。

待つのは苦にならない。変化は何時だってめまぐるしい。だから、次の花が咲いたとき、前の時に腐った花たちを埋めた場所から細い若木が出ていることにようやく気がついた。若木は見慣れない木だった。この温室にあるどの木とも違う、端正さのかけらもない、妙な造形をしていた。花が単なるシグナルでなく、草木の持つ、交接・交配の器だということをここに来てようやく悟った。腐るばかりだと埋めたあれらは、花の機能によって混ぜ合わされた、いびつな種であったのだと。

細い枝のような木は花の咲く木だった。誰も手を触れないのに勝手に花をつけ、増えようとする木だった。俺はそれを根元から折ってばらばらにした。放っては置けなかった。どこかで花が咲いていた。統制の取れた温室の中は混ざろうとしていた。空気は黄色く、甘い蜜がにおった。温かいの中に寒いが混ざる妙な心地だった。どうにかしないといけなかった。温室にある木々を守らなければならなかった。大木が根を張ったシリケートの土は、急ぐ足を取って転ばせようとした。

管制室に飛び込んでスプリンクラーを稼働させる。雨が降り始める。風が出てくる。自分はそれをうんと強くした。ぴったり閉じた窓の向こうでたたきつけるような水音が聞こえてきた。治水も水はけの調整も、土壌の改良だってやり直しになるだろうな、と思った。でもそんなことはどうだって良かった。あの繊細で厄介な花に始末をつけなければならない。そればかりが、世話係である自分に課せられた責務であったのだ。

陰鬱。淫雨。インサニティ。硬いフローリング。暗い部屋。叫ぶガラス窓。がつがつと殴りつける振動は続いている。カーテンは揺れない。カーテンを揺らす誰かはここにはいない。

息を潜めている。机にもたれかかっている。ひんやりした天板に伏せって、耳をつんざく悲鳴を聞いている。ぎい、と鳴ったのは枝の折れる音だろうか。それも気のせいなのかも知れない。どんな物音を立てたってがなる声が何もなかったかのように消していく。時計は壊れている。時間は進んでいない。この嵐で散った花を片付けて、温室を元に戻してやらないと。元に。元のように。

扉は閉まって、風は吹かない。開けろ、と叫ぶのは怨嗟の声か。花の。それとも木々の。外を見るのが怖いな、とぼんやり思って、伏せった格好のまま揺れる時計の針をじっと見つめていた。雨が止んだら花の最後の世話をしなければ。若木とともに磨り潰して温室の隅へ埋めてやるのだ。そうすればなにもかも元通りだ。再度、開けろ、と窓が叩かれる。その声に、カーテンへ目を向けた。ふーっとため息が出る。なんだか少し疲れていた。きっと力仕事になる。だから、少し眠ることにした。

眠りの国へ叱責は届かない。次、目が覚めて、この針が一周したら。カーテンを開けて、日の当たる丘でまたあの温かい雨を浴びよう、と思った。

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