移転者のガニュメート

レーテの流れは甘やかだ。永遠にも思えるほどの旅路も船に揺られるうちに眠りの中へ姿を消した。残ったのは焼け付くような喉の渇きと、幻想の紫色。

ガニュメートは『先生』のことを考える。その人はまるで太陽のようだった。崇拝を通り越し、畏怖にも似た感情を向けていた。暖かさで示される、身を焦がすような慈愛を向けられていた。まばゆく映るのは変化をもたらす紫の光。目も眩むほどの輝きは妖精との別離を経て指標をなくしたガニュメートを強く強く惹きつける。

ロールはどんな姿をしていたか。ロールと何を話したか。ロールが彼になんと言ったか。その全てをガニュメートは忘れてしまった。時計は壊れている。時計は止まっている。修復不可能になってしまったまま、ガニュメートの時計は動きを止めて戻らない。それを自覚させることもないままに生は続く。

ガニュメートは見慣れた天井を認めた。少しだけ配置の違う部屋、威圧感を放つ見慣れぬクロゼット。ボタンを掛け違えたような少しの違和感は徐々に和らいだ。ガニュメートは起き上がって額に触れる。まどろみの膜にくるまれた夢は目覚めとともに消え失せた。指に馴染んだ『習慣』が取り出させた時計は相も変わらず壊れている。ガニュメートは浮き上がってくる盤をカバーのガラスごとギチギチと押し込んだ。ここは『向こう側』だ。彼の『先生』は他次元へとガニュメートを送り出し、ガニュメートは岸辺へたどり着いた。ここは『カロン』の家だ。

だから、つまり。ガニュメートは思い出せないことを思い出そうとする。自分がなぜここへ来たのか。先生はなんと言っていたのか。王宮に連なるものを探すことが、一体何につながるのか。

ガニュメートの体にはもはや魔法は残っていない。生まれ持った古い血は支配と運命に飲み干され、乾いた体に加護はない。ガニュメートは自分が咎を受けたことを覚えていない。妖精殺しによる罪を内面化してはおらず、涙を塩辛くするはずの罪悪感と苦しみは死に絶えた。妖精が痛みの全てを持ち去ったからだ。レーテの流れは甘やかで、時の翼は甘い水をくぐり滴を垂らす。傷を湿し、耐えがたかったはずの痛みも嘆きも、そのことごとくを過去に押し流してしまう。岸部に帰り着くための船などあるはずもない。

ガニュメートは忘れてしまった。元いた岸辺が災禍に沈まんとしたことを。千の目を持つ『先生』が彼に答えを求めたことを。

時計塔の魔術師が芽を摘まない未来が必要だった。ヒビひとつない無垢の懐中時計が叶えた。紫の規範は、運命を変える赤い炎を消す手筈であったのだ。そしてそれらは今集いつつある。意図せぬ形で答えに近づいていることを、ガニュメートは知るよしもない。

前髪に指をかけ、俯いていたガニュメートは額と、それから頭蓋の下の全ての臓器に痛みがないことに気がついた。電波塔が正常に稼働している。窓を向けば、電波塔の黒々としたシルエットが赤い空に浮かび上がる。ポケットの中の時計は『正しく』壊れていた。カロンはうまくやったのだろう、とガニュメートは思った。無人の室内で帰りを待つガニュメートはひとりきり、窓から差す赤っぽい光が時計のダイアルに影を落とすのをじっと眺めていた。

(つづく)

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