三年目の流刑(序文)

ひと月前に用意したせっかくの序文だけど後半に書くべき事がない。なーんにもない、って話。

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 衛星都市というのは都市だ。そこには街と店がある。地方都市というのも都市だ。二言目には田舎と馬鹿にされ、流行りのものすら一巡遅れで入ってくる流刑地のような暮らしと言えども、都市とつくからにはリノリウム床のショッピングセンターやレストランを含む複合商業施設がある。複合商業施設。ボーリング場とか、パチスロとか、カラオケとか、ネカフェとか、スポーツジムとか、そういったものだ。都市には遊ぶ場所がある。それがたとえ、陳腐で、どこにでもある、ありきたりな、全国展開のチェーン店のみで構成されているとしてもだ。

 それに比べてここはどうだ。地方都市に散らばる交通網中継局の、ちょうど間に位置する場所。天網恢々疎にして漏らさず。無論交通網は天の編み目ではないし、疎にして以前にここは編み目のほつれの部分だ。見慣れたものの何一つない無毛の地。見慣れたものはなく、さりとて目新しいものがあるわけでもない。ただ田畑と道路と、住宅街とが、下手くそのつくる溶き卵じみてまだらに混じっている。一回り昔に戻ったように古くさい、『見知った』風景からの隔絶。白く煤けた色のない曖昧。ここはまるでタイムカプセルのその中だ。つまるところが分断されている。
 分断。地上においてはいずれも等しく流れるはずの時間は奇妙に停滞している。時の流れの境界の、こちら側には何もない。駅はある。駅の中には鳩の巣があり、駅の外には広い駐車場がある。『駐車場がある』。早い話が駅まで車で来た上に、電車で更なる長距離を行く悪夢のような運用がなされているということだ。正気か? つまり周辺には何もない。交番もなければ病院もない。産院もなければ墓場もない。ジューススタンドもなければクレープ屋もない。死して屍拾うもの無し、ただ砂漠のような土地がある。生い茂る草木こそ無いが、砂漠には砂がある。乾いた地平に星のきらめきをもたらすオアシスと蜃気楼のまやかしがある。無限の青空と地平線、見渡す限りの『広さ』がある。しかしここには何もない。なにも? 否、そこに広がるのはじっとり湿った住宅街だ。永久に終わらない道路工事の看板が道を塞ぎ、区画整理の成されていない『家を建ててから道を通した』典型の裏路地は迷路の様相を成していて、あちらこちらに腐りかけた電信柱が『自由』の死を悼む卒塔婆めいて地面に突き刺さっている。現世の地獄がここにある。全てのものは黴のように地上を覆い、冷たい地下には電話線のひとつもない。何もない。奇妙に広く作られた表通りに歩道はなく、幹線じみて敷かれたアスファルトの道は、通り抜ける以外に用のない『よそ者』を今日もエメラルドの都へ運んでいく。虚無のさなかに苛立ちが色を付ける。全く何も無かった方がまだましの暮らしがここにある。

 話は戻って住宅街だ。森とも海とも違う、明確な縄張り意識と不可侵の境界がそこらに存在する排他的な区画、それが家、それが住宅。その集積である住宅街がここだ。そこに店はなく、コンビニもなく(この地においてはそんなものがこの世に一度でも存在したのかすら疑わしい)、さらに言えば公共サービスの類もない。というか三階建て以上の建物がない。『超える』ではなく『以上』だ。全くの無である。黴のコロニーだってもう少し建設的な繁栄を見せる。男も女もなく、教育もなく、高尚な芸術も、低俗な娯楽も何もない。喫茶もなければたばこもなく、ダンスもなければ太鼓もない。ドコドコと何かを探す意思のある者はとうに『外へ』出た後で、とにもかくにも何もない。

 何もない。全くだ。

 あるのは山と(これは何も林や木があるということを意味しない。見所のない単純な土地の高低差という意味であり、それは急勾配の坂によって示される)、幅広の障害物以上の意味を持たない川。開いているところを見たことがない郵便局。信用金庫が二件。それからおびただしい数の家。空間を埋めるのは家ばかりだ。既製服の店もなければレンタルビデオ屋もなく、家電量販店も下着屋も住宅展示場も鍵屋も靴屋も携帯ショップも、おおよそ生きるのに必要な店のほとんどがない。……住人はどうやって暮らしているんだ? 通販か? 通販なら仕方ないな。通信販売万歳。貨幣価値の周知徹底とインフラのおかげで飯が食える!
 『何もない』といえど、重力のあるこの地上に真なる空があるわけはない。地表を覆うのは家である。他人の家、不可侵の結界。移動における障害物。土地を狭める有形の負債。規格化されない不揃いの外見が景観を乱し、街の造形を拙いものにする。ここには何もない。虚無、全くの虚無だ。卵の入っていないスポンジケーキ、砂糖の入っていないカステラ、香料の入っていないフルーツキャンディだ。そもそもの前提条件に大いなる欠けがある。住宅の隙間を縫うように点在する郵便ポストだけは土地に不釣り合いなほどあるが、それはつまり他の通信手段が発達していないことの証左に等しい。そういえば公衆電話もないな。ネット回線はもとより期待していなかったので据え付けの無線ルーターを担いできたが、そうなると基地局はあると見える。ああでも電波の有効範囲については詳しくないな。歩いて行ける距離にはなかろうな。それはそうだ。
 ないないづくしは速度を増す。図書館も民俗資料館も博物館も美術館もなく、緑地も貯水池も釣り場もボートもない。ギャンブルもなく、宝くじもない。公共施設といえば、少し開けた道路のさなかにジャングルジムの建つ小さな公園が申し訳程度にあるのみだ。
 田舎にありがちな『食べ物がおいしい』という概念もここにはない。海もなく山もなく、畑に生えている草束はどこへやら出荷されて消えていく。そもそも土地には食料品を買う場所がない。大型スーパーなどは存在せず、町中には小さな商店が一件だけだ。大量に仕入れることのない小さな店舗の商品は選択肢に乏しく、当然ながら高い。田舎暮らしで金銭的な余裕があるわけでもないが、生きるためにはどうあってもカロリーを取らねばならない。仕方がないので三キロ先のスーパー(一階建て)まで足を伸ばして加工肉やシリアルを買ったり(遮蔽物のない長距離輸送になるので当然生ものは買えず、道中に橋と急勾配の坂を超える関係で重量物は持ち帰れない)、通信販売で安価な保存食を大量に買い込んでは少しずつ水で戻して食べている。節制の美徳とは本当にこういうことなのだろうか? ケーキやハンバーガーやピザが食べたい。淡いクリームケーキは手に入らないものの筆頭だ。このままだと誕生日をゆで卵とプロテインシリアルで祝うことになってしまう。死んだ方がましではないだろうか。ありがたいことに水は通っているので飲むものには困っていないのが救いといえば救いか。本当にそうだろうか。早く電気で動けるようになりたい。
 保存食はまずく(ショートブレッドは例外的にうまいが、それなりに値が張る物なのでそうそう頻繁には食べられない)生ものを手に入れようとすれば、駅を経由し片道三十分の距離を行かねばならない。この異常な高温の中では当然腐るしアイスは溶ける。車で行けば早いのだろうが、まず車を持っていない上に、重度の乗り物酔いのために車があっても運転できない。どれぐらい酷いかといえば、乗るとき真っ先に酔い、道中ずっと中空を見つめたまま浅い呼吸で過ごし、ようやく地足を下ろした地面の上で陸酔いするくらい酷い。下手すると吐く。うめき、鎮痛剤を求め、錠剤を飲み下して寝かせておいても一向におとなしくならない。そんなやつの運転する車に乗りたがる人間がどこにいる? 私はごめんだ。事故死は勘弁願いたく、誰かを殺すのはもってのほかだ。人命は高い。身体はどうあってもひとつきりで、早い話がどうにもならない。
 この頃は腹が空いて仕方がない。店のない土地柄のせいか自販機は二百メートル間隔であるが、炭酸とチョコレートとポテトスナックで食いつなげと言われてもどだい無理な話だ。パンのみで生きられない人間がどうして食事以下の菓子類でやっていける? 仮に災害が起きたとして、交通網が麻痺したら足(交通手段)を持たないこの身はどこへも逃げられない。流通が途絶えたら生きるために何を食えばいい? 残念ながらここには人間しかいない。それが嫌なら自販機の外装を剥がして食うしかないが、鉄の板金を咀嚼するのはカルシウムの歯では少しばかり荷が勝つ。人の肉は噛めなくもないが、文明に洗われ社会に育まれた現代人として同族食いは勘弁願いたい。まずプリオンが怖い。癌細胞も怖ければ血液感染症も怖い。そしてこの陸の孤島で肉体を病めばそれを治す手立てはない。問題は他にもある。自分と相手が同じ種族ということは、相手から自分へも同様の図式が成り立つ。同族食いはこちらと相手が同一種族であれば双方向に成り立つ。双方向にだ。人でなしと名高い私も身体は人の子、こちらがどのような主義主張を持ち行動すれども相手も同じだとは限らず、このおびただしい数のうちに一人でも『それ』を『良し』とするものが紛れていたのなら、私は自分の腸に己の肉を詰め、他人の庭で燻されることになる。チップは桜だろうか、それともナラか。私は若く、病歴もない。柔らかい肉はさぞやうまいことだろう。この身体に詰まった脂肪が、肉が、誰かの舌を潤すというのは胸の悪くなる想像だ。人間の身体は消費物ではなく、精神も然り。私の身体は私のものだ、誰にも侵されてなるものか。自由意志を抑えられ、骨をしゃぶられるのはおぞましい屈辱だ。

 屈辱だ。

 さて。この分断された陸の孤島にやることはない。退屈でつまらない土地において人間と人間と人間が集まってすることといえば権力争いか性交渉だが、私に争うような権力の当てはなく、他人と性的接触を持つのは地を這う蛆くらい頭にくる。焼けた糞ほど不愉快だ。不愉快だ。折り重なって眠る男女やその他を想像するだに反吐が出る。反吐が出るので考えないようにしている。なにも他人のプライベートに首を突っ込んで水を差して回ろうというつもりは毛頭無いが(そもそも関わり合いになりたくないとさえ考えている)、粘膜は菌を媒介する。そうでなくても表皮に触れてくる人間はいらつくし、近くで咳をする人間は更にむかつく。インフルエンザは怖く、狂犬病はもっと怖い。狐はエキノコックスを持っているし、人間は寄生虫を飼っている。肉の身体を持つ誰しもがそれぞれ多種多様な疾病の感染経路であり、人間だけは山ほどいるこの土地でそれは『被害がより緻密に、大きな範囲へ』伝播する事を意味する。感染。病。考えられるなかでもかなり悪い。性接触はクソだ。
 肉の快楽を殊更に否定するのは不潔と不義理への抵抗感によるもので、そこに言外の不名誉はない。さておき、名誉と栄光を忘れた肉の部品が機能を失いだれていることはあえて話題から外されているが、どのみち娯楽のない辺境で使う用事はまずないし、事によっては邪魔になることさえあるのでそこをつつくつもりはない。変にかかずらう事はせず、あるがままを維持していく。それが良い。そうだろう。そうだっていえ。いいな?
 文化のない陸の孤島にやることはないが、私自身には成さねばならないことが死ぬほどある。死ぬ。死んでいる場合ではない。まず、腹を壊したので病院を探そうと思っている。下腹部の話ではない。胃だ。先月出先で入ったドラッグストアでは薬局価格のスナック菓子が並んでいていたので、胃薬そっちのけで手持ちの鞄に入るだけ買ってしまった。そんな風だから胃を壊すのだともいえる。ともあれスナック菓子は好きだ。まずカロリーがある。長期保存がきき、軽いので輸送の面で有利。冷凍食品とは違って常温保存ができる上、口に入れるとうまい。最高だ。そんなことをしているのに若干痩せた。跳んでも跳ねても走っても落ちなかった体重が四キロ減った。乾いた熱量を取り湿ったカプセルのビタミンを飲む生活に、内臓が溶け出しているのではないかと一瞬よぎったが想像は想像、医者に診せないことにはどうにもならない。その肝心の医者がいない。どうなっている。パンデミックが起こったら誰が治すんだ? 宅地全部を火の海か? あり得るな。どうなっているんだ全く。

 手枷足枷をはめられたような暮らしに、医療の手は届かない。ああ、薬が欲しい。生まれてこの方乱用を一度もしたことのない『きれいな』身体の持ち主であるが、時折禁断症状めいた手が震えと動悸が止まらなくなる。私はいつだってしらふだ。アルコールも錠剤も粉も煙もやらない。スティグマを持たない身体は健康であってしかるべきだが、この白い肉はこうしてしきりに『ヴォイド』を求める。私は薬をやらない。煙草もシートも切手も結晶も縁遠い。当然だ。不可逆の変化は忌避されるべき悪徳だ。私は薬をやらない。肉に不浄なくさびを打つこともそうだが、この参照先のない欲求に答えが出るのが恐ろしい。なにもしない無垢の身体が、一つの人間として完成する遙か前から、越境の快楽を『知っていた』というのが『わかって』しまうのが恐ろしい。だから私は曖昧なまま、煙に巻いて見えないふりをしている。そうはいっても煙を吸うことはないのでこれはレトリックにすぎない。ただじっと見なかった振りをしてやり過ごしている。

 持続しない怒りと暗い空。六月は幻覚じみている。冬のことは覚えている。夏の苛立ちも知っている。だが六月のことはいつだって曖昧なままだ。温帯低気圧のまぶたを閉じる微睡みと萌芽する台風に押し流され、どこかへ行ってしまう。だから、じっとり雨に押し流されて記憶に残らない六月の幻覚の話をしよう。熱を持つ曇天に目をつむり、まぶたの裏に穏やかな太陽を求めよう。

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(続かない)

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