【1-1】

「嘘つけよ。初めて見た顔だぜ、あんた……」
軽薄な笑みを浮かべる男は白い歯をちろちろとなめ、考えるように目をくるめかせた。
「いいや? もしかしてどこかで会ったか? 俺か、俺のきょうだいにさ。ああ、そうだな、そうかもしれない! 俺はきょうだいが多いんだ! みろよコレ、良い色だろ」
男は肩にかけていた幅広の襟巻を掴んでおれに見せつけてきた。顔がぐっと寄せられて、俺は一歩後ずさった。
「俺の家系に代々伝わる秘伝の黒だ。これが数多の人間を骨抜きにしてきた。一族に生まれた者はみな、生まれた時にあつらたこれを、死ぬまで自分の顔として背負っていく」
男は俺に寄せていた美しい顔を歪ませた。目の前でいびつに歪む顔は『歓喜』、恍惚の色だ。俺は怯えた。目の間にあるのは目を合わせたことを後悔するような表情だった。この襟巻は、男の言う【一族】にとってよほど重要な意味を持つものらしい。竦むおれのなかで急にかっと羞恥が燃え上がって、おれは自分の着ている格子のシャツの裾をズボンへ押し込んだ。男の放つ『歓喜』が、おれの神経を這いずりまわり、変なところが繋がった俺の感情を高ぶらせる。俺も同じように一張羅を着て生活したほうが良いのか? そんなわけはない。男の表情はそレを肯定し、それが絶対の真実であると思わせてくる。良くない。良くない! 悪い感情がむくむくと首をもたげる。こういうとき、おれの情動は七割五分九厘の確率でバッドトリップを起こす。良くない良くない、全くもって何もかもが良い方向を向いていない! 俺は首のボタンを無為に外し、元のようにかけなおした。襟元をぐいぐいと引っ張って、緩んでもいない黒のタイを解いて結び直した。タイピンをつけてくるべきだったか? そんなわけはない。そんなわけはない! おれの胸元は今のままで十分調和が取れている。カフスを掛けなおす。袖は汚れていない。ベルトの穴はあるべきところに収まっている。均衡は崩れていない。靴は履いている。靴ひもはきちんとかかっている。靴が汚れているのは当然だ! おれは山道を歩いてきた! 山道? 何故? まあいい……靴下は履いている。靴下は新品同然だ。おれの顔なんて見てるやつはいない。大丈夫、だいじょうぶ……そう、大丈夫だ。おれは知らないうちに握りしめていた手をゆっくりと解いた。男は夜の海の水面のようにぬるぬると光る襟巻を掴み、俺の心を知ってか知らずか、ただうっそりと笑った。
「うらやましいか? 当然追剥に会うこともある。この美しい斑模様! 欲しくなるのも仕方ない。だろ?」
張り倒してやろうかと思った。思っただけで手は出なかったが、手を握って開いてもう一度、張り倒してやろうかと思った。おれは真っ向から取り合わないように心を傾け、男の襟巻というには幅のあるそれに目を向けた。艶消しの黒は、どこまでも同じ調子だ。おれは黒一色にしか見えないそれを指して、斑模様なんてどこにある、と聞いた。男は襟巻へ手をかけたまま、にたりといやらしい笑みを浮かべた。
「……見たいか? 知りたいか? どうなんだ?」
傾斜のきついなで肩に手をのせ、襟巻を撫でる。小さな顎が動き、口が薄く開かれる。おれは返事に困って目を伏せた。

「そういやさっきの、何回目、ってなんだ? そう、言ったよな?」
おれは尋ねた。ふかふかと襟巻の毛足を探っていた男は振り返り、ぱちぱちと目を瞬いた。
「ん? 俺そんなこと言ったっけ?」
「忘れるなよ……自分で言いだした事だろ」

【つぎ】

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