【1-0】

「そうだったか? まあいいや。しっかし寒いなァ……」
男は一歩的に話を打ち切った。寒い。確かにそうだ。ここは酷く寒い。吐いた息は白く煙って掻き消えた。ここは、酷く、寒い。

そもそもおれはなんでこんなところにいるんだ? 床には埃が積もっている。おれは直近の記憶を探るが、寝ぼけた頭によみがえるのは夢の中のぼんやりとした温かさだけだ。頭を振ると目の奥がちかちかした。そもそも今は何時なんだ。朝か、夜か、薄暗い部屋の中ではそれすらもはっきりしない。時計を見る。十時五十八分、金曜日。平日。そうだ。おれは風邪を引いたとか言って会社を休んで、先々週の夜に偶然見つけたショッピングモール向かいの小高い丘を見に来た。そう、丘だ。そこは丘とは名ばかりの小規模な山だった。踏み込んだおれは中で道に迷って……偶然屋敷を見つけた。偶然? 偶然だろう、別に建物を探していたわけじゃない。おれは、なにをしていたんだ? 思い出せない。おれは屋敷へ近づいた。歩いてきた道は夜露に濡れて冷えていた。外気温は十度を下回っていただろう。外は寒く、俺は疲れていた。それから、それからは記憶にない。何が起こった? おれは、おれはそれからどうしたっていうんだ? それから先……
「なあ、いつまでそうしてるんだ?」
おれは弾かれたように顔を上げる。床の目地に詰まった砂利から意識が逸らされて、おれはそこで初めて自分がずっと床を見つめていたことを知った。黒い男はにたにた笑いを崩しもせず、俺をじっと見ていた。おれは気温とは別種の寒気を感じながら、男を見返した。金の目が、すっと細められた。
「このままここにいてもいいが、遅かれ早かれ夜が来るぜ」
冷えるからなァ、と男はつぶやき、流れるように部屋を出た。開いた扉がぎいぎいと鳴るのを呆然と眺めていた俺は、慌てて男を追いかけた。

「待ってくれ、ここはどこなんだ?」
「ここは廊下さ…… 冗談! 俺の家だよ、不法侵入者サン」
男はケタケタと笑った。おれは言い返そうとして……言葉に詰まった。不法侵入者。否定したいが、否定するだけの状況証拠が俺にはない。入った記憶がないと言っても、現にいま屋敷の中にいる。
「あはは、気にした? まああんまり気に病まないでくれよな。よくあることさ」
こんなことがよくあっちゃまずいんじゃないかと思ったが、おれは自分の立場が悪くなると非常に困るのでただ黙って聞いていた。歩くたび、古びた床は時折ギイギイと軋み、広い窓は内側が曇っている。おれは窓から離れて歩く男の足元が少しも軋まないのに気が付いた。人間じゃないんだな、とおれはぼんやり思った。葬儀屋みたいな色の男は見た目とは裏腹に存外お喋りで、今は手を広げ陽光の有用性とその活用法について語っている。屋根をぶち抜こうと聞こえた気がしたが気のせいか?
「まあもとはと言えばお嬢の家だしなァ…… ははぁは、なあ、こうも寒いとさ、嫌んなっちまうよな…… ああほら、雨が降りはじめた。いや、これは霧か? まあなんにせよろくなもんじゃないな」
男の口は止まらない。おれは話半分に聞きながら、曇りガラスの方へと寄った。へら、と手を広げる男は立ち止まり、どうしてだか窓に近づこうとしない。おれは窓枠に手をかけようと手を伸ばした。湿った窓には埃が絡んでいた。
「ああ、おい、やめとけ」
男が嫌そうに静止の声を発したので、おれは少し興味を引かれた。男はこちらに顔だけ向けて、おれのことを睨んでいる。それでもこちらへ歩み寄ろうともしない。嫌ならば止めればいい。妙だな、と思った。男は不機嫌に襟巻の毛足を立てた。
「開けるなよ、寒いだろ。それに雨が入ってくる。閉める方の身にもなれよな、近づきたくもない」
ただでさえ寒いのに、と男が呟いたので、おれはそうか、と言って窓から離れた。男は鼻を鳴らし、また元のように歩き出した。

「……寒がりなんだな」
そんな服着ておいて、と言おうとしておれは口をつぐんだ。下手なことを言えば何をされるかわかったものではない。
「そりゃあそうさ。冬だぜ。この時期、街をゆく誰もが寒がりだ。だから誰しも並んで歩くんだろう?」
男はそう言って体を寄せてきた。肌に触れた襟巻のふかふかとした感触が俺の感性をとろかす。男の体は暖かかった。やわらかな毛足が肌に触れ、流石一張羅というだけのことはある、とおれはぼんやりした頭で思った。湿った鼻が寄せられ、耳にふうっと息がかかる。男は、口を開いて、ふ、と笑った。どうにかなりそうだ、と思った。滑らかな質感とやわらかな肌。肩へと手が回される。
「……くっつくな…………歩きづらいだろ」
我に返ったおれは、どうにか男の手を払った。暖かな腕が離れ、おれはすこし名残惜しさを感じた。感じてしまった。男は目を眇めた。
「この廊下寒くないか? 俺の服はオールシーズンこれ一枚なわけだが、例にもれず冬は寒くて夏暑いんだ。裏にもう一枚重なってるから年がら年中同じものってわけじゃないが、まあ表地は同じだ。寒いんだよ。っていうかあんたあったかいな……」
吐息混じりの笑い声が神経を逆立てていく。おれは背筋が冷えるのを感じた。

【このままだとヤバい。逃げる機会をうかがう】
【一人で歩き回るのは怖い。このまま話を聞く】

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?