『話す男の話』


おれはずっともうこうして暮らしている。つまりどういうことか。啓示だ。
啓示。お告げというには色の無いそれ。おれの脳内に語りかける者がいる。いや、声がするわけじゃない。ただ何となく、そいつはおれの視線をひっぱって事象へと結びつける。まるで妖精が現実にいるみたいだ、と、思うときもある。これがおれのもつ妙なところ、特異な……そう、体質、だ。早い話、おれは未来予知ができる。”””できる”””。『あいかん』で示される方のできる、だ。それをする能力が曲がりなりにも備わっている。つまりどういうことか。どういうことだかわかるはずだ。まったくもって制御がきかない。

制御がきかない。見たいときに見れず、要らない時にも現れる。制御がきかないといって、それ以上の事があるだろうか。

おれは幻視ができる。いや、一方的な幻視を受け取ることがある。押し付けられている、に近いかもしれない。たとえば天候。雨が降る。たとえば、出会い。誰かと会う。たとえば、たとえば?
たとえば、傘を持っていけと言うのはしょっちゅうだ。そうだな。前に剃刀を持っていったほうがいいような、とにかく妙な胸騒ぎがしたので、T字剃刀を掴んで学用鞄に突っ込んでいったことがある。そしたらどうだ。クラスメイトがどうしても今日、今すぐ腕が剃りたくて、剃刀をさっき、わざわざ近くのコンビニまでいって買って来たというではないか。
剃刀を持って白い歯を見せたクラスメイトを見たそのときに、なるほど、とおれは思った。この力は制御がきかない。胸騒ぎこそすれ、物品を持って言った場合に一体何が起こるのかを、おれの【啓示】は教えてくれない。持って行かなかった場合をも、また教えてはくれない。いや、それはいい。そんなのは行けばわかることだ。雨に打たれ、服を汚した友人へ拭うハンカチひとつ出してやれない。そういうことが起きるだけだ。おれは当然悔やむ。相手に取っちゃ別に何でもないことだろう。だれもハンカチを持っていない。当然自分も。笑い話だろう。おれは違う。おれだけが違う。おれは、この予感めいたものに従わなかったというだけのことで、通常の人間であったならしなくてもすむ後悔をする。

後悔をする。防げたかもしれないトラブルを、自分の選択でわざわざ看過できない方向へ持って言ってしまったことに責任を感じるくらいの心がおれにだってある。相手からしたら何の事だかわからない狂人の理論だろう。それでも俺は後悔する。全くもって骨折り損のくたびれもうけだ。おれは誰にも理解されることのない申し訳なさと精神疲労を手に入れる。まったくもってどうしようもない。

ああ、全くもってどうしようもないんだ。

おれの眼球は瞼の一枚もかかっていない全くの虚空へさまざまを見る。目を瞑る必要さえない。向こうから勝手にやってくるのだ。誰かがころんであられを蒔くだろう。どんなあられかはわからない。でもピンク色のはずだ。だれかが血を流すだろう。血はどろどろと凝った色で手を汚す。指紋の隙間に入り込んで、大変な思いをするだろう。水色のリュックサックが壁にかかっていることが急に意識に呼び戻されるだろう。バックは黒のラティスだ。きっとそのときはひどく鈍った頭で【懐かしい】【こんなことが前にも合った】と思うはずだ。任意の【こんなこと】がまた、いつか、【かならず】、起きるだろう。おれのもつ時間軸は無茶苦茶だ。これから起きること、もう起こったこと、今から起きること。おれにはすべてが見える。見えてしまう。額を覆っていた幕を取り払うように。けして晴れることのないはずの霧がはらされるように。

晴れるように、ではなく、はらされるように、だ。つまりどういうことか。わかるだろう。見ることの叶わない不透明の膜をおれの目はきまぐれに透かす。わかってしまう。わかってしまう。それが【わかって】しまっても【どうしようもない】。つまりどういうことか。この力は役立たずだということだ。

【啓示】が些細で手の届くものならいい。とくに数日間で完結するようなものならば。雨が降る日に傘を持って出かけたというのは、僥倖の一言で済ませられる。おれに与えられるのは勘違いも甚だしく、誇大妄想もいいところのヴィジョンだ。次に【同じこと】があるからなんだと言うんだ? おれには遥か遠くまでの未来が見える。おれには失われて決して戻らないほどの過去が見える。見えたからなんだと言うんだ? おれのもつ【正しい】時間軸でわかるのはせいぜいこの先五十年と過去二十年の間でしかない。誰がおれの【見た】ものの正しさを担保する? 何がおれの正気を保証するというんだ? おれの見た未来は、いや、過去は、一体【いつ】の、【どこ】で起きることだ? おれはおれのみた未来を見ることはない。おそらく。見ることになるかもしれない。そうかもしれない。それがおれにはわからない。【わからない】のだ。
嘘は虚偽だ。虚偽の申告をすることがすなわち嘘だ。おれに与えられた啓示は、嘘ですらなく、全くの意味を持たない記号の羅列でしかない。情報の価値とは関連性だ。文脈だ。【いつ】【だれが】【どこで】【なにをした】。【その結果何が起こった】。そしてその情報がどれ程信頼できるか。これは天気予報のパーセンテージみたいなものだ。とうぜんおれの【啓示】にそんな統計的なものは搭載されていない。
おれの【ヴィジョン】には結論しかない。どういうつもりか知らないまま結果だけをポンと渡されて、それが何かもわからないまま受け取ることになったおれは、いったいどうすればいい。昨日見たのは一面の荒野だ。黄色っぽい砂が見えた、ような気がする。日の射す底は何となく温かい。広く遠くへ開けている。おれの家はなく、おれ以外の人間もいない。もしかしなくても、おれもいないのだろう。そこにはおれの、どこへやら知らない時間軸へ割り込みをかけられたおれの【視点】だけが存在する。

なにが起こるのかわからない。どこへ至るのかは知れても、いつそれが来るのか、おれがそれを知る日は来るのか、本当にそんな日が来るのか。あるいはもう過ぎ去ったことなのか。重要なことが一切抜け落ちている。こんなものは妄想と何ら変わりはない。

おれは悩むのもばかばかしいこんなことで悩んでいる。悩んでいるんだ。きっとまたこんな夜がきて、湿った布団に包まったおれは【If I Ever Feel Better】を聞きながらうすぼんやりとした恐怖にガタガタおびえて眠るのだろう。寒気がして、ぬるついた足の裏からは汗が止まらず、湿った息はもこもことした綿の布団を殊更に湿らせて、やめろ、やめろやめろやめろ!!! 気が狂う!!!!

オーケイ。落ち着いた。だいじょうぶだ。大丈夫、ダイジョウブ…… 細かいディテールが伝わってくるとき困る。とても、とてもだ。

そうだ。脳の機能が落ちて、現在過去未来、起きたこと、起こるかもしれなかったことの区別をなくした人間は【平行世界の自分の意識へアクセスする手段を手に入れた】【目に見える症状はパラレルゲートを人知れずくぐってしまった副産物でしかない】と言った人間がいた。これは実際にいた人間の話だ。半年くらい前の事だ。いや、もう一年に届くだろうか。とにかくこれはおれの妄想ではない。おれはこの役立たずでどうにもならないメガロ妄想じみた【啓示】を得るたびに、それを思い出すのだ。

そうだな、脳の機能が落ちている可能性のことを考慮していなかった。こういう場合は可能性ではなく、【恐れ】を使う。【その恐れがあることを全く視野に入れていなかった】。そう。正しい。全く正しい表現だ。正しさとは力だ。しかし健忘症の【恐れ】がおれにある種の恐怖を呼び起こすことはない。ないんだ。おれは若く、根拠なく大丈夫だと言っていられる。……言うのは勝手だが、全くもって正しくないのは確かだ。おれは若い。つまり生存バイアスのふるいにかけられる前の人間だ。何かあるとするなら、【今まで何もなかった】歴の短いおれからだ。ああ、全くもっておそろしいことだ。この想定は【幻視】に含まれていないのでおれはその恐ろしさを実感することはない。困ったことだ。いや、おれは困っていないんだが。

何の話をしていたんだったか。ああ、そうだ。未来予知。おれは未来予知ができる。できる……可能性がある。そう。そうだ。明日どこで何をしているかもわからないのに、一昨日何時に起きて朝ご飯に何を食べたのかも思い出せないのに。おれはこの力を一体何に使えばいいんだろうな? もしかしたらおれの方が使われてるのかもしれないな。どうもこの【啓示】ってやつはおれ以外の人間のことがわからないみたいだ。だからおれは占い師としてやっていくこともできない。なあ、あんたならわかるか? おれの、この制御のきかない神経症みたいなこれを、どうにかして役に立てる方法を知ってたりしないか?

(『いつか大洪水の声がして』-幻視のできる男の章、pp.68-78)

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