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生きる目的は見出せてないけどVRChatは1年半続けてる

 人生について考えさせられる文章を読み感情が揺さぶられたので、オフ会帰りにフレンドが運転する車に揺られながら、自分の人生観についてVRChatを絡めて考えてみることにした。

私の奇妙なゴールデンウィーク

 思い返せば私の今年のゴールデンウィークはゲルマン人もびっくり(程度は諸説ある)の大移動であり、私のことを知らない人が聞いたら私が正気かどうか疑うような内容だったと思う。

 わざわざVRChatのフレンドに会うために東京へ赴き、VRChatユーザーがよく通うというので秋葉原のHUBへ2日通った。
 VRChatのフレンドと民宿を借りてまでやったことがわざわざノートPCやデスクトップを現実で同じ場へと持ち寄りUnityの勉強会をすることだった。

 さらには別のVRChatのフレンドとオフ会をするために前述の東京から一度名古屋へ向かい、そこでフレンドの車に乗せてもらい長野に向かうというGoogleMapも到底算出することがないだろう非効率極まりないルートを辿った。
 しかもそうまでして赴いたオフ会の中身はSwitchで複数人でローカルなゲームをする、一緒に同じ場でNETFLIXの映画やアニメを見る、みんなでボードゲームをする、みんなでピザを作るといったことをしながら同じ屋根の下で2泊3日するという、そのほとんどがインターネットを通じてオンラインでできる、なんならVRChatをしながらでもできるような内容だった。

 こうした私のゴールデンウィークの内容を私のことをよく知らない人々が知ったら、呆れて何も言わないとか、このnote記事に関するツイートへの引用RTもしくは空リプで私のことをばかにするとか、日本の未来を憂うとか、とにかく私のことをおかしな人と断定するだろう。

 しかしそう思われるのも、相手がそう思うのも無理はない。おそらく人生とか、『生きる』ことに対する価値観が大きく違うのだろう。

生きる目的はまだ見つけられていない

 私の生きる目的はまだ見つけられていない。色々あって『万人には世の中に対して自分に課せられた使命があり、そのために生きている』という価値観を知ったことがあるが、まだその本質には至れていない。

 なので(主に現実において)生きる目的を見つけられていてそれに向かって歩んでいけている人を見ると、素直に羨ましいと思うし、いつかは自分もああなるべきなのだろうかと思うことがしばしばある。

 その一方で、明確な目的意識がなくとも人生は歩んでいけるし、なんなら様々な経験を通してようやく自分の使命に気づくということもあるかもしれない、とも思っている。

 そんなことを考えたままだと何も気づけないまま人生を終えてしまいそうだ、と言われそうな気もするが、他所は他所、うちはうちということで他人の人生のあり方には口を出すつもりは無いし、自分の人生に外部からとやかく言うのも避けて頂きたい。

 どんな人生であれ、成人した自分自身に責任を持てるのは自分しかいないのだ。他人に自分の身を委ねてそのまま破滅していくような人生にだけはしたくない。

 これは自分にも当てはまるが、世の中ほんとうに色々な考え方をする人がいるので、自分と考え方が違う程度で感情を揺さぶられないようにしたほうがいいと思うし、自分でもそうしていきたい。

 例えば、私の知り合い(VRChatの知り合いではない)には好きなことだけやりきって30代ぐらいで早死にしたいという人生観を持つ人がいたりする。

 そういうものである。

人との繋がりは大事にしたい

 人生の根幹がまだ定められていない私だが、それでも大切にしたいものは存在する。それが人との繋がりだ。

 人は1人では生きられない。
 多くの場合自分の衣食住を保障してくれるのは他人だ。
 また、コロナ禍によるテレワーク移行の際に話題になったように、話し相手が極端に減ったり居なくなってしまうと不安を抱える人は存在する。
 実際私もその1人で、自分で話をするのは苦手な割に人の話を聞くのは好きだし、コミュニティに属していないと感じると不安になる、という等価交換が成り立っているのか少し不安になるタイプの人間だ。だからこそ人との繋がりを求める。

 人との繋がりは、良くも悪くも自分を変えるきっかけになり得る。
 
これまでの自分が正しいと思っていたことが間違いだと気付かされることもあるし、自分より凄い(と感じる)ことをしている人を見て焦ったり、嫉妬したりしてしまうこともある。
 あたりまえだとは思うが、人との繋がりを持つと色々な影響を受けるし、与えることにもなる。

 そしてコロナ禍で外出がままならなくなった2020年10月、旅行目的のはずで買ったOculus Quest2(現在のMeta Quest2)で偶然VRChatへの入口を見つけてしまったことから、VR機器を通じた他人との交流が始まった。

善意を受ける側から、いつしか渡す側へ

 VRChatへ飛び込んだ私は、そこに人と人が生み出す『善意の連鎖』があることを知り、そこに惚れ込んでいったのは以下の記事で触れた通りだ。

 それからは私立VRC学園や授乳カフェキタリナ、VRCスクール等々、人々の善意によって築かれた様々なイベントに参加したり、知り合いとProject Upperというコミュニティを生み出したりもしていた。

 とはいえ『連鎖』なのだから、やはり自分も渡す側に立ってこそ、VRChatにおける自らの存在というものが完成するのではないか。
 そう考えた私は、次第に『渡す側』に立つようになった。私立VRC学園では運営スタッフとして様々な進行役を務め、授乳カフェキタリナでは公式ママとして癒しを求める赤ちゃんに相対するようになり、他にもいくつかのイベントを主催するようにもなった。

 その結果、ただ受ける側だった時の自分よりも多くの人々と関わることができるようになった。それによって良くも悪くも様々な影響を受け、様々な知見を深めることができた。

 如何せん現実でそういったことができていないので確証は持てていないが、現実で様々な人と知り合うのと同じくらいにたくさんの人と繋がりを持てるようになったのではないかと思っている。

現実であれ仮想であれ、人との繋がりは同等に扱う

 他の方がどう思っているかはあまり聞いたことがないので、これが一般論とは限らないという前提のもとで話をする。

 私は現実も仮想(VR、またはゲームやインターネットといった何かを介するもの全般)も、何であれそこにおける人との繋がりに優劣は存在せず、どちらも大事にしたいと考えている。

 自分でも時々忘れてしまいそうになるが、仮想空間上における他人は自分にとって都合の良い存在ではなく、あくまでも中に現実の人間が入っている存在である。
 本質的にはどちらも中身が人間であることに変わりはなく、だからこそそうした人間関係に優劣をつける事はしない。現実の用事が入っていればVRの用事は断るし、VRの用事が入っていれば現実の用事は断る(さすがに身内の不幸など、ごく一部の例外は存在するが)。

 だからこそ、会いに行ける時は会いに行く。冒頭でああは書いたが現実の関係を蔑ろにしているわけではなく、実家にも顔を出してはいる。そしてVRで関わっている人々には日頃のお礼とばかりに現実でも会いに行く。
 私にとっては、現実で友達に逢いに行くような気分で仮想空間でお世話になっている人に会いに行く。ただそれだけの事なのだ。

VRChatの価値

 長々と綴ってきたが、結局のところ私がやっているのはVRChatというプラットフォームを通じて現実の人と仮想空間内で善意を与えあっているということでしかない。

 そしてVRChatを1年半以上続けている今でも生きる目的というものを見つけるには至っていないし、このまま続けて見つかるものなのかも分からない。

 しかし、少なくとも『人との繋がり』に価値を見出している私にとっては、生きる目的がとうとかよりも、ただ自分にとって価値があるものを得られるからVRChatをやっているのだ。

実体験し、感想を伝えよう

 VRChatをやる目的は人によって違うだろうし、その差異によってはVRChatをやる意味を見出せずに離れていく人もいるだろう。
 それは純粋に『合わなかった』のだから深追いする必要はないと思うし、そっとしておいてあげた方がいい。


 ただ、欲を言えば、そういった人々にはMeta Quest2のようなVR機器を買うでも、なんならレンタルするだけでも構わないから、デスクトップ画面から眺めるのではなく実際に空間に入り込む体験をしてほしい。

 人の想像力が生み出した、VRだからこその体験ができるワールドに行ってほしい。

 人が提供する、無数に存在する多種多様なイベントに参加してみてほしい。

 Publicインスタンスでは会えない多くのVRユーザーと話してみてほしい。

 そしてそこで会った人々へ、一言でもいいので感想を言葉にして伝えてあげてほしい

そうして1歩ずつ踏み出しているうちに、VRChatはあなたにとってかけがえの無い場となっているはずだ。


ところで、まりなちゃんはいいぞ。この先、まりなちゃんか有効だ。


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