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よどみのない標準語をしゃべる


作品の方向性のルーツを悟ったかもしれない話。


女子校に通っていたらしいTwitterのフォロワーが『女の園の星』(和山やま)の2巻を読んで「私の高校には星も小林も中村もいなかった……」と言いつつ、当時のオモシロ先生のエピソードを書いていた。なので私も思い返してみたけれど、オモシロ先生どころか学校の記憶があらかた抜け落ちていることに気づいて、ちょっと驚いた。学校は好きでもきらいでもなかったが、高校の頃は部活(弓道部でした)とバンド活動に明け暮れていたので記憶の比重はそちらばかりに偏り、授業や先生のほとんどを忘れてしまったみたいだ。

ただ、さすがに上京するきっかけになった恩師や、その瞬間のことは鮮明に覚えている。先日も連絡を試みたし。その先生のことならもうすこし思い出せるかもしれないと化石を掘り起こすように記憶についた砂を払ってゆくと、輪郭が明瞭に浮き上がってきて、ちょっとそれが戸惑うようなことばかりなのでいったん書き残しておこうと思う。記憶が定着したら消す。

高校の2と3年の頃、若い先生がふたりいて、どちらも女性だった。
ひとりは苗字に「烏」の文字がつく珍しい名前で、いつも黒や紺のパンツスーツにパンプスの出で立ちだった。烏さんは英語の先生で、シュッとしていて口を大きく開けて笑い、先生というよりも面倒見のいい親戚のお姉さんという感じだったと思う。

もうひとりは苗字に「福」の文字がつく、私の地元ではそう珍しくない名前で、いつも白や黄色のカーディガンを着ていた。国語の先生だった。福さんは背が高く、ほっそりというか身体が薄かった。艶のある黒い髪はいつも丁寧に巻かれ、洗練された雰囲気だった(そう思うのは先生が東京の大学出身だという色眼鏡があったからかもしれない)。伏し目がちで声を張り上げることもなく、生徒が寝ていようが注意もせずにおかまいなしに単元を進めていた。体育の授業のあとだったと思う。大半の生徒が机に突っ伏している中、福さんは静かな声で『山月記』を朗読していた。教科書の真ん中あたりに指を挟んでいて、教壇は一段高くなっているから私のところから現代文の表紙が見えたはずだった。たぶん。

いま考えてみたら、名前とか服の色とかまさしく漫画のような対比なんだけど、当時はそんなことまったく思わなかったし、べつに周りからも聞かなかった気がする。もしかしたら記憶を改ざんしてるか、あるいは私があまりに鈍感だっただけ??

私の通っていた高校では、教師といえば地元の国立大か私立大出身ばかりで、他県の国立大だと生徒のみならず、他の教師からも一目置かれることが普通だった。「◯◯センセはアイダイやけんの!賢いんじゃ」「●●センセはヒロダイやけんの!エリートさんじゃ」なんて言葉は死ぬほど聞いた。知らねえ。そのなかで、福さんは早稲田出身だった。私学といえば関関同立の私たちにとって、東京の、しかも耳にしたことのあるワセダ。憧れというか好奇の対象だったんだと思う。先生たちも枕詞のように「ワセダの」と言っていた。生徒たちから東京の話を振られて、いつも困ったように笑ってたけど、本当に困っていたんだと思う。もうたぶん私はあの頃の福さんより歳上になってしまったけれど、絶対めちゃくちゃしんどかったと思う。思い出したら本当に申し訳ない気持ちになる。

教壇に立つ先生たちは、なるだけ標準語のイントネーションでしゃべる。授業のときは特に。先生の話す言葉は語尾にわずかな変化があるものの、私たちはそれが標準語だと疑わない。しかし福さんの授業のあとでは、他の先生がどれだけ訛りを抑えようと無駄だった。福さんの話す標準語は美しくなめらかで、無駄がなかった。他の先生は自分のことを「先生」と呼んだし、烏さんは「ウチ」と言っていたが、福さんだけは必ず「私」と言った。


当時から私は小説(とも呼べないような乱文)をしたためては、ケータイで作ったサイトにちまちま載せていた。それで将来どうにかならないかなと甘い甘い考えを膨らませていたので、3年にあがったばかりの進路相談のとき口にしてみたら、とにかく私の作ったものを見せてほしいとのことだった。

ネットで反応をもらうことはあれど、目の前で読んでもらうことなどなかったので踏ん切りがつかないでいると「その方向でやっていきたいんだったら臆してはだめだよ」と言われた。しぶしぶ見せると「べつに小説はどこでも、どんな大学だって、大学にいかなくてもできる」と前置きした上で「それやりたいなら東京いきなよ。知らない文化圏で、おなじように書きたい人が集まってるところがいい」と勧められた。創作表現をするならば私が卒業した大学、それから先生の母校である早稲田のふたつだった。

正直なところ私の学力では早稲田に現役では到底いけなかったし、浪人したり努力を続けられるとも思わなかったので、私は公募制の推薦を使い、とっとともうひとつの大学へ進学を決めた。福先生はわりと最後まで早稲田を推していた。謎だ。でも福さんがいなかったら間違いなくいまの私が存在しないので、どれほど感謝しても足りない。本当にありがたい。


書いていて思い出したんだけど、1度だけ学校じゃないところで福さんを見かけたことがある。香川県は日本でもっとも面積が小さいところで、しかも繁華街らしい繁華街がほぼひとつしかないので、土日に遊びにいくところが中高生も大学生も大人であっても変わらない。エンカウント率が高いのだ。私は友人と『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』を観にいった帰り、福さんを見かけた。Tシャツでスキニーっぽいパンツを履いていた気がする。

学校のイメージとあまりにかけ離れていたので別人だと思っていたが、あちらが小さく手を振ったので間違いなく福さんだった…はずなんだけど、そういうふうに生徒とコミュニケーションをとるタイプではなかったと思うので、もしかしたら本当に違ったのかもしれない。もちろん休み明けにエヴァの話なんてしなかった。

ついこないだ、文学フリマ東京で『学窓の君へ』という同人誌を作った。
いただいた感想のなかで「作者の物語はヒロインが魅力的」との嬉しい言葉、それから理由として「口調だろうか」と挙げてもらった。

もちろん、物語にはいろんなタイプのキャラクターを登場させるように心がけているけれど、たしかに言われてみたら、手癖で書いたときは必ず似たような人物が現れることに、ようやく気づいた。最近だけの話ではなくおそらく大学生の頃からだ。こないだ載せたネーブルオレンジもそうだし、恋人からは「アンタの書く小説は痩せたひとしか出てこねえ」と言われてもいたし。なので、今回のことで本当に納得した。なるほどね、そうだったのか〜


2015年に小さな文学賞の佳作をいただいたとき、近況報告も兼ねてメールを送って住所をうかがい、作品が掲載された雑誌を送った。結婚されたらしく、福さんは福さんではなくなっていた。娘さんがふたり生まれたとのことだった。しばらくして、まずはなによりおめでとう。諦めずに書き続けていると聞いて本当に嬉しいです、結果が伴っていることも嬉しい、と手紙が返ってきた。美しい筆跡だった。

2017年に小さな文学賞をいただいたときもメールを送った。あれからすぐに教師をやめ、引っ越して島で暮らしているらしい。作品がまとめられた冊子をすぐに送った。すばらしかった。前の作品よりもずいぶんじょうずで驚くと共に嬉しくなりました。次が本当に楽しみです、と手紙が返ってきた。

先日、地元の文学賞をいただいたのでメールを送った。メールは届かなかった。地元のニュースに取り上げられたり新聞にも載ったので、まだ地元に残られていたら、たとえ島でも目にする機会はあるだろうけど、はたしてどうなのかはわからない。まだ私はあの頃と同じアパートに住んでいる。

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