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第三話 『新しいもの』

逃れられない天の恵みにアスファルトはただ成すすべなく打たれ、交差点の上に現れた小さな湖が人々の心までを湿っぽくさせる。

 今日の都内の主役はあまり人気者ではない。季節柄の大粒の雫を落として、都内は今頃何もかも水分に覆われているだろう。建物から何からすべての乾きを満たしに満たしている。昔から人間に厄介がられているが、情緒があると一定数好む者もいる。

 水無月にふさわしい大雨が降りやまないでいた。湿度が80%以上と高いのであまり寒さは感じない。風は皐月に奪われてしまったか、大雨に譲って気配を無くした。水無月の準主役であるの朝顔は花と葉の全身で雨粒を受け止めて気持ちよさそうだ。雨に打たれる花も、美しい風物詩だ。

 植物は今日の天気を喜ぶが、人間はどうだろうか。街中を歩く人々は突然の雨に参ってしまい、諦めて雨に打たれる者もいる。駅前では駆け込む人たちが目立つ。女子高校生が二人で一つの傘に入り、陽気にはしゃぎながら駅構内へ飛び込んでいく。どの通行人も室内に駆け込んで軒下で心を落ち着かせる。梅雨の洗礼に見舞われる人間たちは何とも滑稽に思えてしまう。

 今季最大の雨量で、傘があっても手足は濡れてしまうほどの勢いだ。屋根に隠れようとしようとすると余計に避けられない気さえする。無数にできた水溜りは都会を飾り付ける斑模様のように浮かび上がる。まるで芸術的だと皮肉るのはおかしいだろうか。月の名にしても、曜日の名のしても遜色ない空模様である。
 


 そんな大雨の日も黒猫カフェは店を開けている。降りやみそうもない状況で客足は遠のきそうだが、大雨が降ろうと本日は通常営業であるし、雨除けを求めて意外と客は来店する。そうは言ったものの、そうでもない客入りだ。


 時刻は午前10時。店内には10人の常連が席に座っていて、珈琲などを口に含ませる。梅雨の風物詩は眼中にないらしく、透明な板があると感じさせない素振りでおのおのの時間を楽しんでいる。


 黒猫カフェの店主である清川は定位置のカウンターからガラス窓に映る雨模様を無心で眺めていた。
 
 見かけ以上に強い降り方なので清川は思わず窓際のテーブル席まで歩いていき、屋内外の境界に顔を近づける。いつになったら止むのだろうかと、何も予定がなくてもこの後を憂いてしまった。


 予想外の大雨に注目していると、背中からちょうど聞き取りやすく通りがよい女性の声が聞こえてきた。


 「すごい雨ね」


 振り返ると、清川のいる席の反対側のテーブル席でくつろぐ茶髪のセミロングでオシャレな仕事着を身に着けた女性がいた。耳に着けたピアスが照明光を反射していて光った。


 清川は特に驚きもせず、体をねじって返答する。


 「そうですね。かなり降ってますよ、これ」


 そう言うと女性は少し笑って、清川に穏やかな表情を見せる。


 「そうね。でも、今日、ここに来て正解だったわ。こんな天気じゃ、家にいても仕事が捗らないわ。憂鬱になっちゃう」


 「確かにそうかもしれませんね。こんな日があると、カフェってすごく安心感があるなとよく思います」


 「やっててよかったって?」


 「まぁ......そうですね。嫌な雨の日も、なんだか特別に思える」


 清川の言葉に女性は確かにそうねと共感してくれる。

 そろそろ雨の観察に飽きた清川は女性の座るテーブルの正面に立つ。


 「今日もお仕事ですか? 広告の」


 「そう。ここ最近はあまり仕事がなかったんだけれど、もうすぐ夏が来るのもあって一気に増えたわ。本当はもう少し早めに欲しかったけれど」


 「もう一か月しかないですもんね。先を見越して依頼してほしいのが本音でしょうね」


 「そうなの......。まぁ、8月か9月頃に広告を出したいならまだわかるんだけどね。デザインが一発で決まると思わないでほしいわ、最大手だからって。結構こじれるのよ? 停滞もするし」


 「なかなかすんなりとはいきませんよね。大変そうです」


 「でも、好きだから嫌だとは思わないわ。しっかりまとめて、きちんといいものを提案するわよ」


 女性は静かな闘志を瞳に映してテーブルの上の資料を見つめる。清川もそのまなざしを追って視線を落としてみる。

 初期段階のイメージ図から商品の詳細、数冊の色相環のような色見本が無造作に置かれていて、女性の広告の仕事の緻密さが垣間見えた。


 「たくさん資料があるんですね......詳しくないのでよくわからないですが、すごいですね」


 「そうでもないわよ。これでも最低限持ってきたつもりだし。外出先だからなるべく軽くしてるから。テーブル、ぐちゃぐちゃにしてごめんなさい」


 「そんなことないですよ。自由に使ってください」


 「ありがとう。それじゃあ、そろそろ再開しようかしらね」


 よしと気合を入れた女性は目の前に並べられた資料とにらめっこをしながら依頼された仕事に向き合っていく。邪魔になるだろうとカウンターに戻ろうとした清川だったが、不意にシャーペンを止めた女性に引っ掛かりを覚える。


 「どうしましたか?」


 「......え? ああ、何でもないわ。」


 「......」


 「どうしたの? 何か用?」


 不思議そうな目つきを向けている女性に清川は苦笑する。


 「それって順調に進んでますか?」


 「ええ。そうよ」


 「......それにしては目が俯きがちですよ」


 「......そう?」


 清川の言っていることが分からないと女性は否定を含めた曖昧な返事をする。その様子を清川は当然かと察する。


 「いつもお仕事しているときはキラキラして見えるんですけれど、今日はそれが見受けられないです。僕の目が悪いからか」


 「......そう、なの」


 「それに、デザインを考えられるときはいつも鉛筆ですが、今はシャーペンを持ってます」


 指摘されて初めて左手に持つシャーペンに気づいたのか、女性は慌ててペンケースを取り出して鉛筆を手に持つ。


 「そうだったわよ。忘れてたわ。教えてくれてありがとう」


 「なんか、あったんですか」


 気まずそうに笑いかける女性を前に清川は一歩踏み込んでみる。そうすると、女性はため息をついて天井を見上げる。


 「......そうよ。いろいろあったの。仕事のことで」


 「大丈夫ですか?」


 「ええまぁ、大したことじゃないから心配しないで。元気ではあるから」


 「よかったら聞かせてください。今からおかわり持ってくるので、テーブルの上をいったん綺麗にして、休憩時間にしましょうよ」


 しぶられるかと思ったが女性は予想よりも案外すぐに清川の提案を受け入れて、呟く。


 「そう。それじゃあ......頼むわね」
 


 
 ◇
 
 


 時刻は10時5分。天候は大雨一色の攻勢だ。清川の予想よりは少なめの客入りの中、店内に顔なじみの常連ばかりで店主としては緊張を緩めてしまう。


 だからだろうか、黒猫カフェの常連の一人、千種景は隠し通そうとしていた自分の悩みについて清川に告白してくれることになった。他人には弱みを悟らせない性格なので、受け入れられた清川としてはダーツが赤い部分に刺さったような感覚だ。


 約束通り、淹れたてのカプチーノを運んできた清川は片付けの済んだ千種のいるテーブルに置いた。手元に置かれたカプチーノを千種は黙って飲み込み、一息ついた。


 「......温まるわね」


 彼女はカプチーノをいつも注文する。軽い口当たりと外見では推し量れない深い味わいが好きだそう。柔らかいフォームミルクとビターなエスプレッソの相反な特徴を堪能できると、真剣な顔で堪能しているようだ。特にフォームミルクがお気に入りとよく言ってくれる。

 黒猫カフェのカプチーノはフォームミルクにこだわりを持っているので、この評価は純粋にうれしい。黒猫カフェは珈琲などの本来の味わいを大切にしているので、どれもビターな味だ


 やっぱりこの泡がすごく好きだわと満足げにコーヒーカップを傾けている。エスプレッソに入れられたスチームミルクが程よくミルクの甘さを出すも完成としてはビターな味わいで、その上に乗せたフォームミルクが口当たりを柔らかくしてくれている。

 エスプレッソにスチームミルクを加えたものをカフェラテと言うが、そのカフェラテのしつこすぎない大人な味をフォームミルクによって飲みやすくて贅沢な一杯に昇華させている。エスプレッソとスチームミルクの調和と心を包む優しさが両立しているカプチーノだ。

 千種のその表情にあの日の自分が報われたような気がした。美味しそうな顔をしたのを確信してから清川は千種の対面の席に着席し、彼女の迷いをできるだけ消し去るような手伝いができればと思う。

 話始めようとしたときにちょうど千種の好きなブルースの名曲が流れてくる。


 「ちょっと仕事のことで自信がなくなってね。聞きたいんだけど、新しいものっていいものだと思う?」


 「新しいものですか......僕は、きっといいものだと思いますよ」


 「そうよね。私もそう思うんだけど......あの人は違うみたい」


 清川の答えに千種は特に反応はないが、どこか寂しそうな表情をした。清川はなかなか目撃しない光景に動揺している自分が事の重大さを物語っている気がした。


 千種景は広告代理店に勤めている34歳のデザイナーだ。有名な芸術大学のデザイン科を卒業し、満を持して国内最大手の広告代理店に就職した。なので、実力は言うまでもなく折り紙付きだ。

 広告の仕事において核になるデザインを担当している千種は時々気分を変える目的に黒猫カフェに来店する。会社でもデザイン案を練っているそうだが、黒猫カフェに来るとまた違う発想になるようだ。常に仕事に追われているほどの多忙を極めているが、それから抜け出すために会社以外で仕事をすると以前話していた。


 潔く、自分の意思をしっかり持つ頼りがいのある性格で友人も多いそう。子供のように笑いのが印象的で、さっぱりとした明るい雰囲気のお姉さんと言ったところだ。

 服装は、白のストライプシャツにコーラル色のカーディガン、踝までのストレッチパンツで動きやすいオフェススタイル。思わず目を引く大きいの金のピアスに、右手にカラフルな指輪を三つ。シンプルな装いだが、とてもこなれている。ファッションセンスが感じられるコーディネート。


 よくデザインの仕事を持ち込んで黒猫カフェに来店する様子を見ていた。左手の鉛筆を休むことなく動かしていて、自分との戦いの如く腕と頭を使いつぶしていた。

 清川は、いつも仕事に対して正直に愛情と情熱を抱いている千種は純粋にかっこいいと思っていた。どんな時も憧れの人でいてほしいと願うわけではない。

 ただ、そんな姿で深い熱情を持つ仕事に向き合ってほしくなかった。自分の役に立てることがあるならいいと希望を掲げた。


 「あの人と言うのは、仕事先の方ですか?」


 「そう。私よりも10年以上先輩の同僚の人なんだけど、なんか頭が固いのか何なのか、私の意見を真っ向に反論してくるの。『真新しいものばかりでは駄目だ』って......」


 「なるほど。同じ仕事をする先輩と意見が違うんですね」


 「そういうこと。意見が違うのはよくあることなんだけど、今回は根本的にかみ合わない感じなのよねぇ......。だから、『どうして同じデザインの仕事をしているのに分かってもらえないんだろう?』って思ってね。で、最終的には『新しいものを追求し続ける私っておかしいのかな?』って思い悩んじゃったのよ」


 千種は相談する悩みについて経緯を説明してくれた。


 千種はある企業から依頼された広告を担当するチームに割り振られ、総勢10人ほどの上司や同僚とともに仕事をすることになった。依頼を受けてからはクライアントとの会議を通して意向を聞き、広告のイメージを膨らませていった。チームの中でも 千種はメインのデザイナーを担当し、中心的にデザイン案を作成していく役割を任された。もちろんチームでの話し合いを何度も重ねてデザインの形を創り上げていく。

 しかし、何十回も行われる会議の中で必ず一人の先輩と意見が対立してしまう。その先輩は真新しいデザインではなく、定番のデザインを取り入れていきたいと主張していた。逆に新しいと見られることもあるが、新しいものを取り入れていないと人目を引くことはできないし、クライアントの意向に沿えないと千種は反論したのだ。

 だが、いくら主張してもその溝は埋まることなく会議は終了し、わだかまりが残るだけになってしまう。この出来事から、千種は自分の信念を疑いようになり、今の心情に至る。


 清川は難しい表情をして耳を傾けていた。そして、簡単な経緯しかわからないが、明るく物事を捉える性格の千種が悩みこんでしまった原因は導き出せた。


 「それはきっと、仕事の話だからですね。お互い今までやってきた信念や経験を信じているので衝突してしまったんでしょう」


 「あー、確かにそうかもしれないわね。ものすごく頑ななんだもの。まるで岩みたいよ!」


 「上手くいった記憶も相まって、強硬な姿勢なんだと思います」


 「......でも、あんなに言う必要はないと思うのよ。だって、それが業界の基本だし、じゃあどうやって人目を惹くの? 他の広告と差別化するのよ? 定番がいいらしいけれど、それじゃ昔のCMより劣っちゃうわよ。私たちはクライアントからの仕事を請け負っているのよ?」


 少し苛立ちを表して千種は頬杖を突く。最初は気弱そうな口ぶりだったが、あの人のことを思い出してだんだん自分は悪くないと主張したくなってきたようだ。

 苛つきはあまり良いものではないけれど、苛ついているときの方が千種らしくていいと清川は思ってしまった。そのくらい自信があって、立派な人だ。だといえ、その調子だというつもりもないので沈静化する。


 「でも、譲れないものなんでしょうね。分かっていても変えられないことは人間よくありますから」


 「しかし、」


 「なんでかしら......なんで私が批判されなきゃいけないの? ただクライアントの意向に最高の形で応えたいだけなのに。あなたは昔ばかり気にしてて今のことになんか興味すらなくて素通りなのに、私はいつもネットとかで最新の傾向を調べているのよ? どう考えたって私の方が努力しているし、昔の方がよかろうが意識の差が違うわよ!」


 「千種さん......」


 「確かに私は新しいものが好きよ。常に新しいものを求めているもの。でも、それはもっと先に行くため。クライアントに提案する広告をもっとより良いものにするためなの。定番はもう議論しつくされたもの。それをさらに突き詰めても意味はないわ。だって、もう結論は出ているのだから。なのに、それをほじくり返してどうすんのよ」

「たとえ定番がよかったとしても、どんなことを言われたって、きっと私は新しいものを求めてしまう。新しいものは確かに受け入れられないことがほとんどだわ。でも、その新しいものこそ、時代を創ってきたはず。それに今も昔のものは愛されているはずよ? ただ広告には必要ないだけ」


 清川の制止も虚しく、千種は自分の意見を独壇場で噺家もあっぱれな語りを展開している。テンポがよくて、漫才師だったら面白そうだと余計な想像をしてしまう。まぁ、似合いそうではある。

 だが、今はそんな話ではなくて、どうにか落ち着かせられないだろうかと思案しているが何も出てこない。清川は相談はされる方なのだが、今回のようなことは初めてだ。なので、この事態は想定外だ。うんうん唸っていても千種は調子を落とさず突き進んでいる。

 とうとう千種は自分の本心へたどり着き、明瞭に自分の意見を言いつくす。


 「新しいものばかり避けて、昔ばかり重要視されるのはおかしいわ。新しさだって、大切にしないといけないと思う。前から思っていたけれど、あの人は昔が好きすぎる。昔のものばかり評価して、新しいものには目も向けやしない。自分の主観を信じすぎて神格化してしまっているわ。だから、あの人は変わらなければならない。世の中の人だって、いつも新しさを求めてるんだから、昔のものに固執するのは間違ってる!!」


 抱えている悩みに対してすべての自分の気持ちと自分なりの意見を放った千種は、疲れた様子で呼吸を繰り返している。他の客のことなんて忘れ去ってしまい、自制心が解けている。物事をはっきりさせたい性格ではあるが、その場の空気は一番敏感で気にする人だから、よっぽどの荒れ様まで到達してしまったらしい。

 席の背もたれに一気に寄りかかり、ため息をついた。相談前は悲しそうな顔つきだったので、抑え込んでいた不満を出し切ったが表情にはいまだ曇りががかっている。乱暴にもたれかかった反動で飲み終わりそうなカプチーノがこぼれそうになる。

 千種は極端に黙り込み、空虚を眺めている。やっと怒りが静まった千種に清川は呟く。


 「それは、相手の人も同じなんじゃないですか」


 「え?」


 何分も沈黙を貫いていた清川の発言に、思わず千種は気の抜けた返事をした。突然言葉を口にした清川を目を見開いて驚くが、その清川は何とも反応を示すこともなく淡々としゃべり始める。


 「千種さん、お気持ちはわかりますが一度落ち着いてください。自分の想いに視点を向けすぎると、すぐにわかるものも霞んでしまいますよ。それはとてももったいないことです。そして、悩みは悪化していく一方になります。ですからどうか、僕の話を聞いてください」


 自分が当たり散らすように気持ちを爆発させていたのは多少自覚があるが、普段温厚な清川からものすごく冷静な判断をされると冷や汗をかいてしまいそうだ。いつも顔を合わせている清川に稀な真顔を向けられては、さすがの千種も閉口するしかない。

 来店するようになって当初は時々手に掴めない霧のように本心があやふやな人物の印象があったが、その感覚を久しぶりに千種は感じた。なんだか、頭から喰われてしまいそうな迫力がある。

 清川のことを分かっているようでわかっていなかったと気づいた千種は、ようやく平静さを取り戻していった。


 「そ、そうね......」


 清川は待ちに待って、今から千種の悩みに触れられるなと安堵した。
 
 


 ◇
 
 


 清川は数分ぶりに楽に呼吸ができる状態になった。


 千種の不満を受け止めるのはいいのだが、想定外の展開であったし、何より他の客の機嫌が気がかりだった。今日も千種と同じ常連ばかりなのでクレームが入ることはないとは思うが、騒音と雰囲気の妨害というカフェの良い部分をかき消されて苛つきを覚えてもおかしくない。外は大雨で移動は制限されるが、自分が提案したせいでがっかりされるのはかなりへこむ。

 でも、止めるにも圧が強烈で黙るしかなかった。声をかけても聞こえていなさそうだったので、あえてピークを狙って制御を試みた。やっと収まってくれて安心しかない。

 しかし、不思議なのは千種が急に冷めた顔をしていることだ。自分が迷惑をかけてしまったことを反省しているのだろうか。


 「千種さん? 大丈夫ですか?」


 「ああ、大丈夫よ。平気......。今度はちゃんっと、聞くわ」


 清川には無理に平静を装っているようにしか見受けられなかったが、これ以上この話を長引かせるのはよくないので置いておくことにした。清川は千種の話していた悩みを整理して、簡潔に述べて終わろうと思った。


 「千種さん、いいですか。簡単に言いますと、千種さんのその悩みっていうのは世間じゃ大した問題にはなりません。結論、『どっちもいいよね』で終わります。なぜなら、意見は違えど、正直重要なことではないからです。しかし、千種さんと職場の先輩がこじれてしまったのは仕事に関係することからなんです。仕事の話なうえ、お金と企業の評価、さらにお互いのプライドや信念、積み重ねた経験も絡んでいます。なおさら、どちらも引くに引けず、折り合いがつかないのです」


 「千種さんがよく口にしているように、千種さんはデザイナーという仕事に誇りと情熱をもって常に真剣に向き合っています。それは詳しくない僕にも伝わっています。本当に仕事に対して責任と大切さを意識していると思いました。しかし、それは相手の方も同じことだと思います。自分なりの誇りと情熱、信念を抱いて仕事をしているのは。なので、相手の方には相手の方なりの理由があって千種さんとは異なった意見を持っていると思います」


 この時点で清川が一方的に意見を述べているのだが、何も口出されることなく進んでいることが驚きだ。僕の意見にどんどん突っ込んでくると予想していたのに。

 やはり、やりすぎたと自分を咎めているのだろう。反省するのは嬉しいが、あまり落ち込まれては清川自身心が痛む。この話が終わったら、しっかりフォローしよう。

 俯きながら聞き手に徹する千種を心配しながらも続ける。


 「特に昔のことに比重を持たれているのは、今の千種さんと同じ気持ちだからじゃないでしょうか?」


 「私と同じ気持ち?」


 無口になって清川の意見を受け止めていた千種が口を開く。やはり、千種が引っかかるのはそこだと清川は見切っていた。


 「そうです。その方は千種さんとは真逆で『新しいものばかり重視されていて、昔のデザインが蔑ろにされている』と思っているんだと思います。だから、新しいものを勧める千種さんに対して反発するのです。『今回こそは自分の意見を通そう』と。今回こそ、自分の思ういいものを創ろうと。自分にとって大切なものが否定され続けているのって、かなりきつくて耐えられないものですから」

「そういう理由で一回も譲ろうとしなかったかもしれないですね。だから、どちらが悪いとかはないと思っています。昔のものも、新しいものも、どちらも大切。どちらも、今までの時代を創ってきました。その二つに、優劣なんか無いんです」


 「......」


 「それに僕が思ったのは、その人には何か考えがあるんじゃないでしょうか? きっと、『新しいもの』ではできないアイデアが。『昔のもの』にしかできないデザインが。もっとその人の意見を引き出してみてはどうですか? 千種さんは昔のものも大切にしているようだけれど、相手からしたら伝わっていないかもしれないです。もっと向き合ってみましょうよ、デザインと同じように」


 「デザイナーに誇りを持っているなら、もっとぶつかって、前提の話じゃなくて、さらに先に進んだ具体的なことを話しましょうよ。昔と今が一緒になれば敵なんていませんいよ。協力して、昔のものでも新しいものでもできない、『人の心を最大限に動かす』広告、ぜひ世の中に見せてみてください」


 千種がもう一度前を向いて、凛々しく華やかにデザインの道を追求してほしい願いを込めて、清川は満面の笑顔を見せた。

 それを見た千種は大きい目をして口を半開きにした。目が覚めたというか、そんなことで良かったんだと心が軽くなった。


 仕事に対してはいつも全力で最高のものを創らないといけないと無我夢中になって走っていた。息切れはよくない、足を止めるのはもっと良くない。怠惰をしてはいけない、いいデザインができなくってしまうと焦って立ち止まることを自分に禁じた。

 そう思い始めたのはいつからだろう。気が付けば、誰にも頼らず、自分のことだけを信じてやり切るようになっていた。一人だけで、デザインを創っていた。誰かの声に応えていた。


 駄目だったんだ、一人だけでは。無理だったんだ、一人だけで多くの人の声にこたえることは。もっといいデザインを追求することは。


 千種はおろしていた髪を黒の髪ゴムで結んで、清川の目をまっすぐに捉えていった。


 「ごめんね。迷惑かけて」


 清川を見つめる千種の瞳は冷ややかに映るが、今までの千種から生まれ変わって本来の千種が覚醒した合図だと清川は確信した。


 待ってましたよと言いたくなる気持ちを抑えて、最後にエールとして千種に言葉を送った。


 「僕が一番いいと思うデザインは、昔と今の融合。どちらの面も含んでいる良いところ詰めの広告です。いつか、誰よりも早く、見せてください」

 千種は少し子供じみた我が儘風に言う清川を真剣に受け止めてくれた。そして、千種は「お会計」とぴったりに代金を支払い、梅雨の長雨を吹き飛ばすくらいの太陽に負けない純粋なはにかみ笑顔を置き土産に、颯爽と店を出て行った。


 清川の左頬はほんのり温かく照らされていた。


 ◆
 


 午後12時。


 正午に一瞬晴れ間が現れたものの、結局カエルの楽園に元通りになってしまった。雨雲はまだ降らしたりないらしい。
 ビルの屋上がお気に入りのあの影も、今日は明け渡して、路地裏でポツリ雨の雫を眺める。


 『今回の悩みは自分には自分の誇りがあるからこそ、仕事に対する情熱が強く向上心があったからからこそだったな』


 影は自分の塗れた手をお構いなしに地べたを眺めている。


 『後は、あの人の選ぶ道を行けばいい。間違いなはずがないから』


 『ゆく道が決まったあの人は、誰にも止められない』


 いつものビルの屋上が愛おしいのか、雨雲に覆われた都内の空を見上げる。


 『ゆけ、どこまでも。続け、未来まで』


 尻尾を揺らして、影はもう少し雨のオーケストラを鑑賞したいらしい。
 「まだこれから」と、雨も鳴りやまない都会を演出して、影に応えているようだった。

 眠そうに、体を反って伸ばしたら、丸くなり瞳を閉じて、梅雨の楽音を物静かに歓楽した。


 ◇


 千種が来店した翌日の天気は、昨日より穏やかな霧雨だった。雨粒は小さくさりげなく地面に落ちている。大したことない雨だが、予報通りだからかほとんど誰もおらず、店内は閑散としていた。


 客もおらず、注文もない。店内の清掃も済んでしまった暇な清川は新聞をおもむろに取り出して、朝刊でも読もうかと開いた。


 すると、たまたまい開いたページは新聞広告で目を引くものがあった。細見しなくても、誰がどんな気持ちでこの新聞広告に熱情を注いだかは分かりやすいも何もなかった。


 見たことあるが、見たことない。今にしかできない表現だし、程よく懐かしさも感じる。そんな広告だった。


 「ずいぶん派手にやったね」


 そのチラシを隣人のように左手に添えて、久しぶりに朝刊を読み進めた。最近目を通してなかったから世の中がどうなっているのか把握してなかったが、現代も複雑のようだ。


 朝刊を読み終えた清川は他人と共有したいのか、その新聞広告を鋏で切り取り、ラミネート加工して店の窓に張った。店内に戻ると、小さな子供が歓声を上げる。


 「見て! パパ・ママ!これ、欲し~い!」


 霧雨を黄色い傘を回しながら歩いていた少年は、広告に目を輝かせていた。ぷにぷにとした可愛らしい手で、面白いものを見つけたと両親を呼んでいる。


 微笑ましい光景だと思うと同時に、清川は雨の日も楽しいことはあるんだと子供に教えられてしまった。


 霧雨は一日中降るのだろう。だが、今日限りで、その通りになるといいなと願った。


 「また晴れるんだから。雨のことなんて、心配いらないよ」
 
 


第四話へ、続く......。
 
 

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