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品品喫茶譚 第27回『今出川 キャンパス』

その喫茶店はいつも通る道の近くにあったにも関わらず、ずっとスルーしていた。というか存在自体が目に入っていなかった。一緒に行った彼女に聞くと、一時期閉店していたこともあるらしく、なるほどそれでは気づかなくてもおかしくはなかった。しかし、私のそのときの感覚からすると、そもそもそこに喫茶店があったという認識すらなく、もっと大げさに言えば、いきなりそこに喫茶店が現れた、と言っても過言ではなかった。過言ではなかったので、私は「こんなところに喫茶店あったんだあ」などと間抜けな声を出し、彼女から呆れられるということになった。
「石川啄木の小説読んだんだけどさー、無茶苦茶独りよがりですごかった。あんなのだれも読まねえよ」
店には先客がいたが、彼らはどうやらその話す内容からして、近くの大学の文学部に通う文学青年たちのようだった。
保坂和志が、千葉雅也が、知らない外国人作家の名前が、と文学談義に花を咲かせつつ、何の用事なのかは分からないが、夜からは彼らにとってちょっとうきうきしつつも、緊張を伴うような行事があるようで、いまはその時間までのリラックスタイム、というか作戦タイムみたいな時間らしかった。

「スケキヨってまだ生きているらしいよ!」
私は彼らが急にスケキヨの話をし出したので、思わず耳をそばだてた。スケキヨといえば、金田一耕助、犬神家の一族である。確かにあの映画(石坂浩二が金田一のやつ)はなんとなく夏に観たくなる。ああ、こういう少し頭でっかちそうな、それでいてサブカル気質を持った友達が私も大学時代に欲しかったなあ、と思いながら、彼女はまるで新宿ピースで出てくるようなエビピラフを、私は想像に反してしっかりと手作りでもって用意されたカレーライスをもしゃついていると、どうもそれは角川映画の話ではないようだった。
スケキヨではなくシゲキヨ。つまり彼らは重松清をシゲキヨと言っていたのだった。それはいままで深く考えたこともない意外な呼び名だった。コペルニクス的転回だった。思わず私は犬神家と言えばの、あの湖上から突き出した二本の真っ白い足のように心の中で後ろに盛大にぶっ倒れたが、そもそも勝手にこちらが間違い、勝手に転がり回っている様ではしょうがない。彼らは私たちよりずいぶん先に店を出たけれども、私の心に沢山の何かを残していった(後日、私は石川啄木の『雲は天才である』という小説を図書館で見つけてかりた)

店は入って左側の壁一面が鏡になっており、その下に古めかしい長ソファで四、五席、もう片方の壁際に二席か三席あり、そのうち、右奥の一席は片方の椅子だけ丸椅子だった。統一感という面でいうと、あるようなないような、しかし雰囲気は間違いなく純喫茶のそれであり、結構それはそれで良かった。というか、統一感がありそうでないのも純喫茶の魅力の一つだろう。そういう意味でもキャンパスは良い喫茶店だと思った。
鏡に面した方の左奥の席には男性の写真が置かれていた。当然いまはお客用には使っていないのだろう。写真の前には盆も近いこともあってか、ほおずきがたむけられていた。男性は恐らく店のマスターだったのだろう。もしかするとお店を閉めていた時期とも関係があるのかもしれない。写真の男性はどこか見知ったような、会ったことのあるような不思議な雰囲気を持った、朗らかで優しそうな顔をしていた。店員の女性がお冷に勢いよく水を注いでいく。店を出ると、大文字山の方向に大きな虹がかかっているのが見えた。

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