見出し画像

品品喫茶譚 第109回『東京 人形町 快生軒』

先日、東京国際フォーラムにピナ・バウシュ「春の祭典」を観に行った。
公演はそれはもう凄まじく、超一流のダンサー同士が作り出すとんでもなく豊饒な空間は何の知識もなく、舞踏というものを初めて生で観た阿呆男の心を一瞬で奪うものだった。圧巻だった。

普段、東京では西側、中央線方面に泊まることが多いのだが、今回は劇場が有楽町にあるということもあり、日本橋に初めて宿を取った。あまり歩いたことがない界隈を歩くのは楽しい。宿に着き、荷物を置いて早速、街へ繰り出す。
なんとなく馬喰町の方へと歩を進めると、人形町と呼ばれる辺りで、一軒の喫茶店を見つけた。
喫茶去快生軒。
文字で説明すると何だかややこしいけども、その字面が汽車の形になったものが看板になっていて、とてもかわいい。店内は撮影禁止だったので、うろ覚えの記憶を頼りに綴るのだが、とにかく右奥の壁にでかい面があった。とにかくでかい面であった。その下で女性が一人珈琲を飲んでいたのを覚えている。
私は昔、とある喫茶店でちょっと時間を確認しようとスマホを取り出しただけで「撮影禁止なんですよ!」と大声で注意されたことがある。そのときの恥ずかしさ、やるせなさ、スマホをすごすごとポケットにしまったときの屈辱感は忘れられない。今でも悔しくて何度も目が覚める。
は言い過ぎだけども、やはりルールはきちんと守るべきである。そもそも喫茶店では珈琲をゆっくり飲むことこそが一番大切なのだから、そんなことにいちいち拘泥しているようではしょうがない。というかスマホなんて最初から持っていないくらいの気持ちでいたらどうなのか。ちまちまと隠し撮り(無論、珈琲をである)でもするような雰囲気で、猫背で、こそこそしているように見えるから、いらぬ疑いをかけられるのである。これはどんなことにも言えそうなので、しっかりしろよお前、と自分に言いたい。
さて例によってアイス珈琲(全くいつまで暑いんですかねえ)を注文し、このあと観劇が控えているため、余り長尻せずに店を出る。

馬喰町を目指す。
何度か道を間違えたり、昔一度だけ来たことのある道をふいに思い出したりしながら、段々、街は卸問屋街の様相を呈してくる。
エトワール海渡。
突然、私の眼前に現れたそのビルの名前に激しい感傷を覚える。
それは私がまだ幼かったころ、家族が洋品店を営んでいたころの記憶である。うちの店はエトワール海渡で商品を仕入れていたのである。私も何度か連れてきてもらい、建物の中に入ったことがある。
「次は小伝馬町~」というアナウンスは馬喰町が近いことを思い出す私の幼いころの電車の記憶のひとつである。
エトワール海渡では、まず一階で荷物を預け、透明なビニールの袋をショッピングバッグにして店内を見るのだ。荷物を預ける場所には無料で飲めるオレンジジュースの機械が置いてあり、小さな紙コップで何度も飲んだことをよく覚えている。いま思えば果汁などほとんど入っていない極めてケミカルな大甘のオレンジジュースだった。それでも私はそれを飲むのが楽しみだった。
そのオレンジジュースは東京そのものだった。
本当は店の中に入りたかったが、卸問屋は何かお店をやっていないと入れないのだ。近くをうろうろし、喫茶店を見つける。
その店は前面は良い感じだったが、側面には某宗教のポスターが所狭しと貼られていた。スルーしても良かったのだが、入った。新しく喫茶店を見つけた以上、入らなくてはならないからだ。
店内にもやはりその宗教の教祖の著書のポスターが沢山貼られている。もちろんその店の喫茶店としての良し悪しと、店主の思想はなるべく分けて考えたいところではある。あるのだが、何か釈然とせず、やはりアイス珈琲を注文し、ささっと飲み干すと同時に店を出た。食事のラインナップも充実していたし、喫茶店としてはきっと悪い店ではないのだろう。

公演を観た後は、電車を乗り継いで高円寺に。結局また中央線のほうに来てしまった。大好きなバーで少しだけ飲んで、日本橋へ戻る。
そろそろ長袖が恋しい、と思うのはきっと君だけではないだろうね。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?