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品品喫茶譚第32回「金沢 茶房犀せい」
「この店で一番安い酒をちょうだい」
オドオドと店の中を眺めまわしている私たちの、その少し後に入ってきた男が言った。
店では爆音でジャズのレコードが流れている。
ここは金沢のとあるジャズバー。
レコードは私たちが店に入ったとき、店主の女性がかけたものだ。少しアンニュイな感じを醸し出したクールな女性だった。夕食を取るためにホテルを出た私たちは、その途中、偶然見つけたこのバーの、その店構えの余りのかっこよさに、普段ならば私が日和って素通りするのを、旅の夜の高揚も手伝い、思いきって入ってみたのである。
「この曲は聴いたことがないなあ」
男は親し気に店主に話しかける。常連なのだろうか。
「そうですか」
「うん。僕、フリージャズしか聴いてこなかったものだから」
「これもフリージャズですけどね」
店主は全てを見透かした感じで言った。
しかし男はあきらめない。
「僕はね○○っていうアンプの会社にいたんだよ。△△が◆◆で、ジャズでは馴染み深いやつでね。■■なんだよね。ぺらぺらペラペラ」
「○○は△△が◆◆だから■■ではないはずですよ」
とにかく男と店主の話が嚙み合わない。
男のその、自分はこういった場所には行き慣れており、洒脱な会話ができるジャズに対してもたいへんに造詣の深い大人なのだ、というアッピールをしたい感じがあまりに軽薄すぎて、いたたまれない。
舐められてはいけないという意識が強すぎるのに、持っている手札が弱すぎる。
私は男にその知ったかぶりと言うには余りに心許ない翼を無理に羽ばたかそうとするのをいますぐやめてほしかった。
共感性羞恥がひどすぎて、男のほうを見ることもできない。
しかしなおも甲高い声で男は続ける。
「マイルスは六〇年代だったね」
「はあ」
一体何が六〇年代なのか。
「ぐびぐび。ぐびぐび」
言う事成すことすべてうわ滑っていく。
「ぐび。ぐび。ぐびぐ。び」
ついに無言になった。
しばらくして、この店で一番安い酒を一気に飲み干した男は「また来るよ」と言い、そそくさと店を出ていった。
静かになった店でチャールズ・ミンガスのベースがうなっている。
また来たいと思った。男はもう来ない気がする。
急に思い立って金沢へ行くことになったのは九月の初めのことだった。京都駅からサンダーバードに乗り、小松という駅で降りる。そこから金沢までの移動は主に路線バスだった。
私は知らない街の路線バスに一等旅情を感じてしまうのである。
車窓をホームセンターや学校、畑、住宅地が流れていく。土地に住む人たちが乗ったり降りたりを繰り返す。手汗でふにゃついた番号札の紙を握りしめながら、自分が降りるバス停まではいったいいくらなのかと、ドキドキしながら運賃表示の移り変わるのを見ている。
金沢に着いたのは夜だった。香林坊で降りるのは数年ぶりのこと。なんとなく路地を徘徊し、一軒の喫茶店を見つけた。
「茶房犀せい」
二階へ続く階段を昇ると、純和風でコの字型の店内のそこここに本棚が置かれ、店名の由来にもなっているのであろう金沢の文豪・室生犀星の著書や、金沢にゆかりのある作家の著書が沢山さしてあった。店には初老の男女数人のグループがおり、俳句の話をしている。
ここは文学だ。私は嬉しくなった。嬉しくなったところで私には特に何もここで文学を披露することはできないのだが、とにかく嬉しい。
会計を済まし、ふと階段横のダンボール箱に目をやると、数冊の古本が並べられており、なんとこれらはご自由にお持ち帰りください、とのことだった。私が一冊の文庫を手に取ると、店主の女性が何を選んだのかと聞いてくる。
ここだと思った。
「カフカの『審判』です。装丁がめちゃめちゃかっこいいと思いましたあ」
頭の悪い発言である。
店主は「あらカフカ! はあ」みたいなことを言った。
数時間後、私はバーで一番安い酒をちょうだい男と遭遇したのである。
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