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品品喫茶譚 第61回『京都 祇園 カトレヤ』

何かをしようと思えば思うほど焦り、焦りまくった挙句、妙にやる気や気力がどこかへきれいさっぱり雲散霧消してしまい、呆けたまま時を過ごす、ということが結構ある。
やらねばならないことが山積し、そこに締切が重なることによって気力の減退に拍車がかかる。反対に旺盛に活動を開始するのは怠惰の精神である。怠惰の精神は仁王立ちでほくそ笑む。
「いまから火事場の馬鹿力待ち!」
追い詰められたら追いつめられた分だけ出ると言われているあの力である。呆けた時間の延長試合開始ということで、この延長時間こそ甘美で本当に気持ちがいいから困る。
youtubeをつける。漫画を開く。小説を積んでみる。読まない。スマホもチェックする。SNS流れる。怠惰のためならいくらでも勤勉になれる。youtubeを観ながら乾いた洗濯物なんかを畳んでみることで帳尻を合わせた気持ちになっている。そんなことをしているうちに眠気が襲ってきて、簡単に屈服する。一時間だけ寝よう。

三時間後に目覚める。外では雨が相変わらず降り続けている。
やっべー、今日マジで気圧がやっべーとか思っていると、本当に頭が痛くなってきてイブを二錠。薬が効くまではゆっくりしないと、と再びソファーに寝転がる。もう夕暮れだ。こうなってしまってはもう取り返しがつかない。開き直る必要がある。しかしぐずぐずと後悔し、結局その時間もまた無駄にしてしまう。なんとか自分を鼓舞する。馬鹿のごとく開き直れ。

思いきって祇園花月に行くことにする。今日は囲碁将棋が来ている。
傘をさしてバスに乗る。車内の空気はもわついている。暑い。臭い。そして眠い。何より床がぐちゃぐちゃだ。二人掛けの奥の席に座る。段々、車内が混んできた。カッパを着た旅行者の集団が、私の反対側の二人掛けの席に座る青年の横に陣取る。ひとりがリュックを背負ったまま羽織ったカッパを脱ぐこともなく彼の横に腰を下ろした。カッパの側面が確実に彼の側面に触れている。もちろんしょうがないことではある。それでもちょっとかわいそうだなと思った。雨はなおも強く降り続けている。外は真っ暗だ。くもったガラスをこすってみても何も見えない。見知った道でも不安になる。
祇園花月に到着し、座席につくと思ったよりもステージに近い席だった。中央にサンパチマイクが置かれている。徐々にお客が集まり始める。そこから一時間半、ずっと笑っていた。
劇場を出て少し歩いたとき、帽子を落としてきてしまったことに気づいた。急いで来た道を戻る。きっと親切な誰かが劇場に届けてくれているだろう。もしかしたら劇場はもう閉まっているかもしれない。大変なことになった。色々な人に迷惑をかけている。私は誰にも迷惑をかけずに暮らしていきたい。そんなに長い距離ではないはずだが、焦っていると道中が長く感じてしょうがない。

帽子は劇場前の路上に落ちていた。
誰も触った形跡のない、私の懐から落ちたままの体勢で地面に突っ伏していた。

「本当にごめんよ、淋しかっただろう。僕だって淋しかったんだ。その証拠に走ってきただろう。汗と雨で髪の毛は散らかりまくりだよ。マスクの中で自分の呼気が行き場を失くしているよ。苦しい。本当に苦しいんだ。ごめんよ。ごめんよ」

「気にすんなって。大丈夫だよ。それにしても僕ちょっと色褪せてきたと思うんだ。何より僕の体はコーデュロイでできているだろ。もうすぐ季節的に無理になると思う。だから、もしかしたらこのままお別れしたほうがよかったのかもしれない」
私は帽子をササっと掴み、鞄にしまい込むとまたすぐに歩き出した。

カトレヤに来たのは何年ぶりのことだろう。ブレンドを注文する。美味かった。ひたすらに美味かった。カトレヤの茶色を基調にした店内がひたすらに落ち着く。
祇園の街は週末なのに人通りが少ない。外国人観光客は戻ってきた。そういえば京都ってこんな感じだった。若者はいなかった。八坂神社のライトアップをみんなスマホで撮影している。ピカピカしていた。傘をたたむのが下手で手がびしょびしょになる。
結局、お笑いを観て、帽子を落として、珈琲を飲んだ一日だった。
肝心の馬鹿力はいつ出るのだろう。
家に帰って缶ビールでも飲んで、すこーんと眠ったら、明日にはすべてがリセットされる。

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