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品品喫茶譚第41回『福井 アシスト機能つき自転車と夕暮れに出会った喫茶店のこと』

夜明けとともに福井の街の輪郭が段々はっきりとしてきた。宿の目の前の大きな公園では老人たちが体操をしている。朝だ。新しい街に初めての朝が来た。着替えてロビーに降りる。昨晩、宿に戻ってきたときにソファーに座っていた人がまだ座っていた気がして、ちょっと心配になった。もしかしたら勘違いだったかもしれない。
近くのホテルでレンタサイクルを借り、昨晩、夕餉をとった蕎麦屋のあたりに見つけていた喫茶店にいく。
カファ・ブンナという六十代くらいの女性が営む店だ。雑然とした店内はいかにも夜の街の喫茶店といった佇まいで悪くなかった。モーニングを注文する。サラダにトースト、ゆで卵は熱々だ。キッチンの壁には「モーニングいつでも注文できます」とある。喫茶店にはこういうふうにモーニングと書かれていても終日注文することができるものがたまにあって、存外、変な時間に注文するモーニングもまた嬉しいものなのである。背徳感、ではなく、スペシャル感、ではなく、なんというかうきうき感とでもいうのだろうか。うきうき。

福井の朝を駆ける。知らない街でも自転車を駆っていると、少しだけ街が自分の身体の方に寄って来てくれる感覚があって、嬉しくなる。まだ店の開き始めていない商店街を抜け、駅前のガード下をくぐり、その街に住む人たちの生活圏の方へペダルを漕いでいく。目指すのは美術館と文学館だ。途上、文房具屋でノートを二冊購う。私にはツバメノートのばったもんを集めるという趣味があるのだ。今回はばったもんではなかったが、ビニールカバーのかわいい古いノートを見つけた。

大きな川を渡る。鵜が羽を広げている。京都でも高野川上流の方でよく見かける鳥だ。懐かしいはおかしいけれど、こういう既視感が嬉しいときもある。アシスト機能付きの自転車は自分以外の力が体を前へと進める感じがあって、少し慣れない。それでもひと漕ぎするたびにアスファルトを滑っていくような感覚が少しだけ気持ちいいときがあった。
美術館では山下清の展覧会がやっていた。氏のその夥しい作品群にかなり体力を持っていかれたが、何点か心に響くものもあった。特に放浪で有名になる前のものにグッとくる作品が何点かあった。
文学館は美術館からすぐ近くのところにあった。大きな図書館の中に文学館はあり、図書館自体も近くに住んでいたら通いたくなるような広々とした気持ちのいい空間だった。朔太郎の展示を観て、外に出る。薄曇りだが、雨は降っていない。
行きとは少しだけ違う道を通って駅の方へ戻る。商店街の一角にある「わおん書房」という個人経営の本屋に寄る。二代目神田山陽『桂馬の高跳び』(中公文庫)を購う。講談も落語も全く詳しくはないのだが、噺家の書いた文章は好きでよく読んでいる。
商店街にはテアトルサンクという映画館もあって、ここも自分が福井に住んでいたら通うだろう。映画館や本屋、図書館に喫茶店。それらは初めて訪れた街での生活を想像させ、自分と街の距離を縮めさせてくれる場所である。空想を転がすのは楽しい。
そんな空想が本当になって、私は京都にいま住んでいるから、いまは想像の中にしかないどこかの街でいつか暮らすことが、これから本当にあるかもしれない。そんな街が沢山あれば、私はすごく心強い気持ちがする。たとえば、尾道、小樽、高知、姫路。生きていける、と思う。
 
夕暮れが近づいてきた。もう一軒だけ気になっていた喫茶店があり、自転車を急いで走らせ、店に入ると、あと十数分で閉店という時間になっていた。コーヒー一杯だけお願いし、カウンターに座る。テレビでは古畑任三郎がかかっている。京都から来たことを告げると、とても喜んでくれた。マスターも大学生の時に京都に住んでいたのだ。時間がないにもかかわらず、せかせかすることなく、色々な話をしてくださった。最近、奥さんが亡くなったこと、店を開いてもう五十年になること、来月から豆が値上がりすること。本当に優しい時間だった。そして少しだけ切なくもあった。テレビでは古畑任三郎が事件を解決し、エンドロールが流れている。また来ますと言って、店を出た。
珈琲所。訪れたい店ができて、街がぐっと自分と近づく。
そういえば店のトイレには「急ぐとも心静かに手をそえて外にもらすな松茸の露」と張り紙がしてあった。私は便器に一歩だけすっと体を近づけた。


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