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品品喫茶譚 第56回『家の近くの喫茶店 震災のこと、店の奥でプチ同窓会が開かれていたのこと』

3.11のときは東京の書店で本を売っていた。
どすんという大きな音とともに床がぐにゃぐにゃ揺れ、ビルはびょんびょん横に振れた。それでも正常性バイアスに囚われた私は薄い経済雑誌を持ってきたお客さんのレジ打ちを続けようとした。
隣にいた大学生のスタッフがひゃあと大きな声を上げた。いま思えば彼の感覚こそ正しかったと思う。
私はお客さんに「ちょっとやめましょうか」とニヤニヤしながら言った。不安でしょうがないからニヤニヤしていた。
すぐに店は臨時休業になり、スタッフは全員で近くの学校の校庭に避難することになった。校庭には近くから避難してきたさまざまな世代の人たちがいた。
誰もが少しでも状況をつかもうとスマホにかじりついている。SNSには千葉のほうの工場で火災が起きたとか、どこかで爆発事故があったとか色々なデマも流れていた。
学校のテレビから陸に向かって海上を走る波の映像が流れるのを見て心の底から慄いた記憶があるが、それは本当に観た映像だったのか分からない。
そのとき最初に声を上げた大学生の彼の私服を初めて見た。
革ジャンだった。
なぜかそんなことを強く覚えている。

京都に来た理由のひとつも3.11だった。
震災後の東京のある種の閉塞感、原発事故のこと、街を離れる理由は色々あったが、自分の活動のことを考えるとなかなか決心がつかず、結局街を離れたのは震災から二年が経った2013年の春だった。

震災の少し後、地元で企画したライブの前日に宮城を訪れ、震災の爪痕をこの目で見た。
波にさらわれた街と高台にある住宅街のコントラストに圧倒された。悲しかった。
小島の群れが波をいなし、余り被害を受けなかったと聞いた松島の平静(もちろんそれは余所者がいっとき街の表層を見て浅はかにそう思ったに過ぎないものだ)に一喜一憂したり、自分が徹頭徹尾、なんの責任も伴わないお気楽で呆けた馬鹿な旅人であるということを再確認させられた旅ではあったが、震災後の街をじかに見れたことは私の心のどこかの部分にやはり強く残っている。

「みんなの笑顔を被災地の方々に届けたいんです! 良かったら笑顔の写真を送ってくださいませんか?」

「僕の歌を拡散して下さい!被災地のみなさんに元気になってもらいたいんです!」

そんなことを思いつきでポンポンやれてしまう知り合いの知り合いみたいな奴らから送られてくるDMに、いまは歌の出番ではないと、分かったような口を聞いていたが、じゃあ自分は震災後に被災地のために何かしたかといえば何もしていなかった。
二年かかって、私は東京を離れた。

検索したら、募金になるというネットのやつを毎年やる。
実家から車で、新幹線で、街を訪れる。
茨城、福島、宮城、岩手。東北は北関東に実家のある私にとって、小さいころから馴染みのある場所だ。
ここ一、二年でようやく街を訪れ、何軒かの喫茶店に行くことができた。
喫茶店は余所者の私を静かに迎えいれてくれる。
そんなとき私は少しだけ街の空気に溶ける。
街との距離が僅かに縮まる気がする。
これもまた旅人の勝手な感傷かもしれない。
東北の街にはまた行きたい喫茶店が沢山ある。

いま家の近くの喫茶店でこの文章を書いている。
震災のあった14時46分を30分ほど過ぎたところだ。
店内にはクラシック音楽が小さな音で流れている。
奥の席に座ったおばさん四人組が談笑しながら笑い転げているから音が実際よりもっと小さく聞こえる。音楽喫茶という名前に反して、彼女たちの話の邪魔をしないよう控えめに鳴っている。
こちらの注文の声におばさんの笑い声が重なって、聞き返される。
どうやら小さな同窓会のようだ。
店主のおっさんは会話に加わったり、仕事に戻ったりを繰り返している。
みんな楽しくてしょうがないってかんじだ。
私は入口近くの席に座って、スパゲティと今年最初のアイスコーヒーを待っている。
外からはもう春の匂いがしだしている。
少し早い春には暖かさのなかに少しだけまだ冷たい風が混じる。
いよいよ店主のおっさんは奥の空いた席に座って、おばさんたちの輪に加わった。
私は飲み終えたアイスコーヒーのストローをカラカラもて遊びながら、いつ会計をお願いしようか考えている。
おばさんたちがしょうもない下ネタでゲラゲラ笑う。
なんてことない穏やかな時間に泣きそうになる。

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