見出し画像

King of insects “昆虫の王 ”🪲

 夏日の少し落ち着いた頃、博士は窓辺の揺り椅子に腰掛けながら自らの仮説を復唱した。

『昆虫は有機コンピューターである。自然界の営みを補助するため、もしくは我々を監視するために創造主とされる異星人より送りこまれた存在である。』

 博士は書斎の棚から選んだ、厚みのある皮の表紙の書物をゆっくりと読み始めた。

『ファーブルも途中で気付いたに違いない。あれ程緻密な観察をしていたのだ。個体による違いはあれど、あれほどの正確なコピー技術。統率の取れた行動は、驚異的な科学力で管理されているとしか説明できない。』

 夜風に当たりながら博士は、年季の入った素焼きのパイプに火を点けた。
 青白い月の光が、夏の終わりの和らぎを匂わせ、香ばしい刻み煙草に、より一層のフレーバーを与えた。
 博士は昆虫学者である。専門は甲虫類で、離島での隔離された環境下における個体の地域特性についての論文を幾つか発表している。
 部屋の壁には博士のお気に入りの標本が数点、部屋のランプに照らされていた。コガネムシやカナブン、ハナムグリをはじめ数々の小型の甲虫類の背中が鈍く光っている。標本の隣にはアンティークの昆虫の標本画、反対側の壁にはビュッフェの花のリトグラフが飾られている。
 博士は昆虫記を読み返しながら、果てしなく空想に耽るのであった。
『昆虫達を管理するホストコンピュータはどこにある?月の基地か?それとも成層圏の彼方にある謎の衛星か?マシンの作成者の姿は?そして何処から見ている?昆虫から送られる映像は全て記録されているのか?監視の昆虫はやはりヤンマの類か?彼らの飛行ルートは明らかに捕食者のそれとは違うことは、甲虫専門の私にでも分かるのだ…。』
 博士はそんな空想を論文には決して書けるはずはないと思いながらも、確信に近いインスピレーションを持ち日々構想を暖めているのだ。
 パイプを半ば吸い終わった辺りで、博士の部屋をクセのある靴音を響かせ、扉をノックして訪れる者があった。
『おやおや、こんな空想話に興味がある方がいるとは思わなかった。どうぞ中に入って。詳しく語り合おうではないか。』
 博士は満面の笑みで扉を開けて訪問者を迎え入れた。緑色のウイスキーのボトルとカチ割の氷片を抱えて、これもまた満面の笑みを浮かべた大男がズカズカと、嬉しそうに部屋に入ってくるのであった。
 博士は甲高く響く涼しい音と共に、氷をグラスに入れウイスキーを注いだ。今宵も友と、昆虫談義に花を咲かせながら、月の光の照らす夜を飲み明かすのであった。
 もう部屋の外からは、秋の情緒を司る泣き虫達の奏でる演奏が響いているのである。
 離島の湖畔に暮らす博士にとってはこの頃の、いつもの時間に現れるお決まりの訪問者である。

 月夜の中、少し大きめの鱒が跳ねる音が聞こえた。羽虫も羽化が待ちきれないのであろうか。明日は凪の予感である。

 朝が訪れた。まだ暗いうちから2人は言葉も交わさずにひたすらと身支度を整えた。2人は昆虫学者以前に生まれつきの、根っからの釣り人であった。胸まであるゴム長を履き、2人はお気に入りの浅瀬に滑り込んだ。
 羽虫が羽化をしている…コカゲロウ。博士はニンフをリーダーに結んだ。ライズは稀である。
 博士の友人は男気に溢れるスタイルで、水面での誘惑の一本縛りである。お気に入りの大型ドライフライを選び、ひたすら魚影を待つ。

 波紋が2つ、浅瀬の先を左からゆっくり回遊する影が見える。
 博士の友人はロッドを振った。美しいキャスティングを見るために、しばし博士は自らの釣りの手を止めた。来る…博士は息を呑んだ。
 友人は音もなく静かに合わせると、ロッドは鮮やかに大きな弧を描いた。

 音もなく大型の鱒をランディングすると、友人はネットに入れたまま2度目のキャストをした。当たりは先程の格闘をすっかり消している。 
 波紋がもうひとつ…先程より少し小ぶりながらも立派な鱒。またしても音もなくランディングし終えると、友人は2匹をネットに入れたまま陸に上がった。

 友人の狩りは終わったのだ。友人は朝食を作るために火を起こしていた。湖畔には焚き火の煙が登り始めた。

 あっという間に差をつけられた博士も再びキャストを繰り返した。
『ニンフ…』
 そう呟いた後、水面のラインが静かに横に走った。ゆっくりと力強くフッキング。鱒は先程とは打って変わって激しく暴れ回る。

 ランディングの後、博士は念入りに鱒をカメラに収める。ネットで十分に力を回復した鱒は、ゆっくりと博士によって元の湖に返された。

 半刻もしない内に博士は空腹に負け、朝の釣りを終えた。

 博士は煎りたての豆を挽いてコーヒーを淹れた。友人とスモークされたばかりの鱒のサンドイッチを満面の笑みで頬張るのである。

 朝日はまだ登ったばかりであった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?