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#26 「障害受容」から「自己理解」へ

 本記事は、先日の記事「#24 「障害受容」というテーマ」を掘り下げた内容となります。

 
 ある方と、「障害受容」というテーマについて話をしたときのことです。
現在は「障害受容」というワードが使われなくなりつつある」という言葉を聞いて、ハッとし、自身の理解が不十分だったことを痛感しました。
「障害受容」という言葉は確かに世間一般ではよく用いられるものですが、突き詰めていけば「自己理解」であり、「受容」という言葉には「受け入れるべきもの」というニュアンスも含まれるものです。
また、「障害受容」という言葉を見つめたとき、私がもつべき認識はそれで良いのかという疑問が生じました。受容するだけで良いのか、自分を取り巻く様々な状況は、どう生きていくべきか理解しなくても良いのか。それらは、「障害への自己理解」と表現されるべきものではないのか、と。
そこで、今一度「障害受容」から「障害の自己理解」に考えを変えて見てみることにしました。
(過去記事は、そういった反省の意味も含め、誤字や脱字以外は編集を行わないこととします)

「障害の自己理解」とは 〜軽度知的障害に焦点を当てて〜

 そもそも、「自己理解」とは何でしょうか。
 内閣府の「ユースアドバイザー養成プログラム」によると、自己理解とは

いくつかの手段により自分の気質,性格,ある種のタイプ,価値観,考え方,態度・行動などを深く知り,それを自分自身が納得して受け止めている状態のこと

内閣府の「ユースアドバイザー養成プログラム」より

と定義しています。
「何かしらの手段を通して、自分自身を構成する要素を知り、それを受け止める」という手続きが自己理解であるというものです。

 では、本題となる「障害の自己理解」とは何でしょうか。
山田(1995)は、知的障害者を対象とした自己理解について、

個人が自分の能力、性格・行動特徴と置かれた社会的状況を現実的に認知し、受容すること

山田 純子.1992,軽度知的障害者に対する自己理解援助のプログラム

と定義しています。

また、軽度知的障害者が自己理解をする場合に基本となる要素として、

① 障害の理解、即ちできることとできないことを理解する
② 自分を肯定的にみる
③ 自分の考えをもち、発言できる
④ 必要な、わかりやすい情報を得る
⑤ 必要な時に手助けを頼められる

上記の5点を挙げています。
共通している事は、「できない・わからない」という状態がないようにする
です。

軽度知的障害者の自己理解と教育歴

 本研究では、軽度知的障害の人を対象とし、障害への自己理解に関する調査を行っており、障害の認め方と性別、年齢、IQ、職歴、教育歴との問には相関関係は見られなかったことが報告されています。
しかし、「教育歴」に焦点を当てると、「一般教育出身者」と「障害児教育出身者」では「障害児教育出身者」の方が、障害を認める傾向にあることを指摘しています。
また、「障害児教育出身者」の中でも、学校や職場でのいじめや失敗経験によって障害を認めることに対し、相対的にネガティブに見ている可能性があることを指摘しています。

 憶測になりますが、「一般教育出身者」の中には「障害児教育出身者」よりも、「できない・わからない」の状態に晒される傾向にあると思われます。
少なくとも、そういった「できない・わからない」に直面すればその現実から避ける方向へ、できない自分を認めたくない方向へ意識がシフトするものと思います。
つまり、「わからない・できない・しんどい」という経験は、軽度知的障害者が障害の自己理解を阻害してしまう要素となる可能性があるということです。

「わからない・できない・しんどい」は、避けるものではない

 障害の有無に関わらず、誰しもが「わからない・できない・しんどい」という経験を避けて通ることはできません。
仮に、それができてしまう環境があったとしたら、ある意味で怖いなとも感じるものです。
しかし、「わからなかった」「できなかった」「しんどかった」を受けて次に繋がらなければ、同じ体験の繰り返しであり、それが自信を失わせるだけでなく、現実から目を背ける原因ともなり得るのは想像に易いものです。

 では、上記をどう考えていくべきか。
この先も避けて通れないものであれば、やはり時間を掛けてでも向き合うことが必要です。
そこで、「支援要請」や「自分でも解決策が理解できる」といった、山田(1995)が示した「必要な、わかりやすい情報を得る」「必要な時に手助けを頼められる」といった要素が必要となることが考えられます。
 「困ったときはGoogle」から、「困ったときはChatGPT」に時代が移りつつある現代ですが、障害の有無に限らず、人は常に頼れる存在を必要とするものです。
しかし、こと知的障害に関しては社会システムがすべての人たちに適したものではないことから、障害のない人たちよりも「困った」が多く存在します。
加えて、一方的に援助ばかりされていては、自己肯定感は上がらず、また自分の考えを表明することが難しくなります。

ここまでで、
自分も わかる」「自分も できる」「しんどいの反対」と思える経験をしつつ、自分の「できる・できない」を知っていくことに、自己理解があるのだと感じました。

ここまでの記述で、「結局は当たり前のこと」にたどり着いたとも言えますが、その当たり前を突き詰めることが本当に大切なことなのだと思います。

当たり前を積み重ねると特別になる

この言葉が私の中でしっくりときました。

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