【巨人の肩の上から #番外編】自己目的化する執筆
noteの公式から、今月中に記事を投稿しませんか?という勧告が届きました。あまり意識していませんでしたが、なんだかんだでかれこれ7ヶ月間、最低でも1ヶ月に1つは記事を公開するというペースを守って投稿をしていたようで、それが1月31日までに新しいものを書かないと途絶えてしまいますよ!とのことです。
この通知を見て、「これは確かに、ここで毎月投稿を途絶えさせてしまったら残念だ。なにか月末までに、人様に公開できるような文章を1本書かなくては」という気持ちになりnoteの下書き画面を開いたのですが、困ったことに、なにも良いアイディアが出てきません。そうこうしているうちに、タイムリミットの1月31日が来てしまいました。ということで、この文章は「1月中に記事を投稿するために書かれた記事」、言うなれば、「書くことを目的として書かれた文章」です。
文を書くことの「目的」とは?
同時に、この文章はある種の自己反省・自己批判を含んでもいます。すなわち、先の通知を見て、「ああ、書かなくては」という気持ちになってしまった自分に対する反省を促すものでもあるということです。
なぜ反省をしなければいけないのでしょうか。おそらく、私は本当ならば、noteの運営から何を言われようと、「うるさい!俺は書きたい時に書きたい内容を書くんだ!」という気持ちでいるべきだったような気がするからです。あくまで個人的な話ですが、執筆という行為は、「何か書きたいこと/表現したいこと/他の人に伝えたいことを文章として表現する」という目的に対する手段として位置付けられるものである、という信念が自分の中にはありました。
執筆という行為それ自体が目的として執筆という行為がなされること、すなわち、執筆活動が自己目的化してしまうことは、私にとってはなんとなく、文章を書くという行為を堕落させてしまうことへの第一歩に感じられました。何か明確に「これを書きたい」と思うような内容(=目的)がないならば、何も書かん!という気持ちでいたのならば、もし仮にその(書きたいことがない)状態で「今月中に記事を書いて連続投稿を伸ばしませんか?」という勧めを見たとしても、心は動じないはずだったのです。しかし、正直に述べれば、私の心はほとんど無抵抗に、ものすごく自然な成り行きのように、例の通知を見て「ああ…何か書くか。」と動いてしまいました。文を書くということ、その手段と目的の間の境界線が曖昧になり、しだいに惰性化していくことは避けたいと思っていただけに、後から振り返ってみるとこれは悔しいことだったのです(お前は修行僧かお堅いビジネスマンかのような気持ちで、こんな趣味ブログを書いているのか?と思われたらそれまでですが……)。あくまで私にとってはの話ですが、これは「書くという行為の愉しさ」に関わる、根源的に重要な問題でした。
そもそも「目的」と「手段」はそんなにキッチリと切り分けられるのか?という問題もある
ところで、ある行為についてその「目的」と「手段」を切り分けて、特定の目的に対する手段としてのその行為の適切さをとらえるという思考法は、半ば私の中で自然なものとして定着している気がします。しかしおそらくは、このような日常生活における考え方は(私が最も慣れ親しんでいる学問領域である)社会科学、特に社会学や経済学に強く見られる傾向に影響されたものなのでしょう。
例えば著名な社会学者であるマックス・ウェーバーは『社会学の基礎概念 Soziologische Grundbegriffe』(1921)という論文で、(社会学をやっている人たちの中では)有名な「合理性の四類型」を次のように提示しています。
ウェーバーはそのうち、特に「目的合理性」(すなわちある「目的」に対して適切な「手段」を選べる、という意味での「合理性」)を、資本主義の時代において特に見られる、人間の行為の背後に存在する精神性として考えていたようです。企業は自らの利益を最大化させるという目的のための適切な手段の追求として経営を行い、労働者は自らの収入を最大化させるという目的のための適切な手段として労働を行う、そのような螺旋の中で「ムダ」すなわち目的合理的でない行為は省かれてゆく、というのが資本主義のグランドデザインなのではないか、ということでしょうか。(もちろん、他の種類の「合理性」も定義していることからもわかるように、ウェーバー自身はそのような「純粋に」目的合理的な信念のみに則って行為がなされることは、どんなに「資本主義的」な精神の持ち主でも現実にはあり得ないと考えていたでしょうが。)
また、面白いことに、ウェーバーは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(1920)において、貨幣(利益)を得ることそれ自体を目的として行動することをよしとするような精神性こそが「資本主義の精神」である、というようなことを考えています。貨幣(お金)とは普通に考えて、何か生活のために必要なものや欲しいものを購入するための「手段」ですが、「資本主義の精神」は、貨幣を得るということそれ自体を「目的」とする精神性である、というわけです。これはいわば、資本主義の拡大によって、貨幣を得るという行為が自己目的化した、という指摘になりそうです。先ほど私は執筆の自己目的化を嘆いていましたが、日常生活の中で、「お金を得る(目的)ために働く(手段)」という思考は普通に、無批判に受け入れてしまっていますから、これは結構耳の痛い主張です。
経済学では、このような「目的-手段」の思考はさらに顕著なような気がします。『経済学の本質と意義』(1932)という本で「経済学の定義」を提唱したライオネル・ロビンズは、このように述べています。
この定義(「希少性定義」)は現在でも一部の経済学者に受け入れられているほど単純明快なものですが、やはり、「目的」と「手段」をきっちりと切り分けて考えるという学問的な意識が見えます。企業の「目的」は利潤の最大化、と設定すれば、慈善事業に寄付をするという行為は経済学の分析枠組みからは「非合理的な行為」か、もしくは「消費者からのイメージアップによる長期的な収益の増大を企図した行為」のどちらか、ということになるわけです。
自己目的化は悪いこと?
このようなある種の「思考のクセ」があるから、執筆の自己目的化は私にとって「悪いこと」のように感じられます。しかし、実際はそうなのでしょうか?単に、「執筆は何かを表現するために行うこと!」という、目的を一つに固定させる思い込みが、私の中で悪さをしているだけなのではないか?と考えることもできそうです。
例えば、さっきの「企業の慈善事業への寄付」の例。実際のところは、企業は利益の増大を目的として設定したうえで、それに対する「非合理的な判断」をしたわけでも、「消費者からのイメージアップによる長期的な収益の増大を企図」したわけでもなく、単純に慈善事業に寄付をすることそれ自体が(道徳的な)「目的」だったかもしれません。そっちの方が、ずっと自然な考え方です。
このように、「目的はこれ(利益の増大)で、手段はこれ(「慈善事業への寄付」のような「行為」)」と最初から決めつけていると、現実を捉えることで重大な思考のエラーが生じることがありそうです。そう思えば、目的と手段との間の境界線をきっちりと設定するのではなく、曖昧にしておいた方が便利な気もしてきます。そう思えば、もう少し気楽に、「まあたまには文章を書くことが目的でもいいじゃないか」と思いながら、適切な手段、たとえば「パソコンを起動してキーボードを打つ」「おいしいコーヒーを淹れる」をとることのできている自分を褒めてあげるぐらいの気持ちでもいいかもしれないわけです(「ゴロゴロしながらYouTubeを見る」=誤った手段 よりはマシ!!)。
しかし何はともあれ、やはり、なにか目的を設定して、それに対し今の自分は的確な手段を取れているかという観点から自身の行為を評価してしまうという「資本主義的な」悪癖は抜けないものです。別に、「価値合理的に」執筆をしても(「文を書くのは道徳的に良いことだ!」と信じて文章を書く)、「情緒的に」執筆をしても(「なんか猛烈に文を書きたい!」という衝動で文章を書く)、「伝統的に」執筆をしても(「毎月やってることだし…」という習慣で文章を書く)悪いことはないのだと思いますが、自分の「執筆」という行為に「目的合理的な」理由づけをしようとしてしまうということ(そして、それに失敗した自分を冒頭のように責めること)が、私の陥っている根本的な罠なのでしょうか。
遅くなりましたが明けましておめでとうございます!2023/01/31
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