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授業料値上げ問題についての私の意見——The Sins of the Educated Class


(問題の背景については以下のリンク等を参照のこと)


ここ数十年、特に最近、エリートの教養階級における進歩主義が、若い頃に読んだフランシス・パーキンスが唱えていた労働者階級の進歩主義と比べ遥かに魅力のないものだと感じている。多くの人々と同じように、エリート大学のダイナミクスが国民生活と政治に広がり、アメリカをあらゆる面で悪化させているのを、私はある種の呆れとともに見てきた。このダイナミクスについてもう少し具体的に説明しよう。
第一は、誤った意識である。進歩的であることは、特権に反対することだ。しかし今日の進歩派の人々は、高級大学や大きな財団、一流の文化機関といったエリート機関を支配している。進歩的であると自認するアメリカの成人は、白人、高学歴、都市部に偏り、比較的恵まれた環境にある。
これが教養階級の矛盾である。彼らの美徳は、反エリート的であることによって定義される。しかし、今日の教養階級はエリートによって構成されているか、少なくともその大部分を占めている。高学歴の人々が、特権の敵であるというアイデンティティと、少なくとも教育的・文化的に、そして多くの場合経済的に、自分たちは特権階級であるという事実との矛盾を解決しようとするとき、知的好奇心という我々文化の多くは散逸する。

Brooks, David. "The Sins of the Educated Class." The New York Times. June 6, 2024.

東京大学が揺れている。来年度以降、授業料の引き上げが検討されていることが発表されたためだ。
今駒場キャンパスを歩けば、値上げを断固阻止しよう、大学当局に対抗しようといった、活動的な学生によるアジテーションを絶え間なく目にし、聞き続けることができる。立て看板に拡声器での演説という、昔ながらのいかにも古き善き学生運動の復活といった様相だ。

もう5年以上、この駒場キャンパスで学問を修めてきた身として、自分もいち意見を表明したい。現在行われている学生による授業料値上げ反対運動には、全くといってよいほど賛同できない。今や彼らの主張の多くは、単純に論理的に破綻しているか、自身の社会的な特権性を棚に上げた空虚な反権力的イデオロギーという自己矛盾であるか、あるいは、最も良いものであっても、元々はある程度筋の良いものであったはずの論点が「大学当局」を「悪者」として吊し上げて叩き続ける過程のなかで、形骸化してしまったものにすぎない。

以下では値上げ反対運動側が唱和している論点を検討し、私の見解も述べていこうと思う。(私があまり運動にコミットしていないだけで、重要な反対側の論点を拾い漏らしてしまっているかもしれない。そういったprinciple of charityに反した議論をしまっている場合は、あらゆる批判を受け入れるつもりだ。)

なお、私以外の学生が「学費値上げ賛成」の論点を提示した文書が匿名で公開されていたので、こちらの文章と重複する内容は基本的に避けている。
https://drive.google.com/file/d/1xHfBkP5Utei86IRudShmNeQCuUW6PLsI/view?usp=sharing 私の文章よりも遥かに精緻に、数字に基づいた議論をしている。本来は、大学側がこういう値上げの根拠提示をするべきなのだが…)
ただし、私の立場は(おそらく上記の文書を記した方の立場も)、厳密には学費値上げに「賛成」ではない。心の底から授業料を上げてほしい学生など存在しない。せいぜい、授業料値上げはやむなしと考える「消極的賛成」か、現行の反対方針に反発を抱いている「反・反値上げ」とでも表現される立場だろう。


1. 経済的論点

一番とっつきやすい、経済的な論点から始めよう。前提として、東京大学の財務状況は現状それなりに苦しい。というか、国公立大学は全体的に苦しい。もちろん、これはひいては日本という少子高齢化に苦しむ国家の財政状況や、教育への投資というより大きな話と関連している問題だが、少なくとも反対派が国ではなく大学当局や東大総長を相手取る場合、経済的議論のフレームは「大学のお財布 vs 学生のお財布」だ。国からいくら金が降ってくるかとか、国のせいで財務が苦しいとか、こういったストーリーは経済的議論の所与であり、論争とは切り離さなければならない。
(「選択と集中」によって大学への出資をとにかく絞ってきた国への文句なら、いくらでもいうべきだろう……この抗議は大学と学生が手を取り合って一緒に、だが。)

それから、これも当然の前提として、昨今の日本では物価が基調的に増加している。そんなことは、社会的に開かれた精神の持ち主である東大生諸君ならば誰でも知っているはずだ。
特に急激に上昇しているのが電気をはじめとするエネルギー価格だ。バカでかいキャンパスや実験施設を複数所持し、各教室の電灯、空調、コンピュータ、実験設備等々に日々膨大な電力を消費している東京大学の収支にとって、電気料金の上昇がどれほどの影響を与えているかは想像に難くない(授業料値上げでちょうど電気代の上昇分がトントンになるという面白いデータ)。
インフレーションは、通貨価値の相対的な下落を意味する。つまり、インフレ下である財やサービスの価格を上げないということは、実質的な値下げである。インフレ率と値上げ額が釣り合っているか、本当にその額(11万円)の値上げが必要かという議論を飛び越えて、値上げをする/しないの二元論の上で闘い、値上げをすることそれ自体の撤回を求めるということは、日本社会全体のインフレという経済的文脈の中では非常に強い主張であることを自覚するべきだ。
もちろん、東京大学は世間の潮流や社会的評判から切り離された「象牙の塔」、「天空の城ラピュタ」、「アテナイの学堂」、そして「特権的エリートの楽園」であり、物価上昇などという世俗の問題に左右されることなく授業料値上げの議論ができるのだと思いたいのならば、話は別なのだが。


X(旧Twitter)上で話題になったこのポスト。アルバイトの賃金が上がっていないのならこの計算は正しいのだが、実際にはアルバイトの賃金もインフレに伴って上昇しているので、論理的に破綻している。もちろん、すべての東大生が高時給の塾講バイトに就けるわけではないとか、時給が上がらないバイトもある、とか、いろいろと議論はできるが…あくまで一般論としては、経済的論点に訴えるのならば、インフレ(授業料の値上がり)には言及しておいて賃金の上昇を無視するのはあまり良い議論ではない。


さて、値上げ反対派はどのような論点から経済的主張を構築しているかというと、その主要な戦略は経済的に困窮している学生のエピソード・トークである。駒場キャンパスの至る所に張り出されている反対派のポスターには、学習時間を削りアルバイトに励み、必死の思いで奨学金を手にし、今でもやっとの思いで学問を修めているといった、匿名で集められた「苦学生」の経済的エピソードがびっしりと書き連ねられている。いうまでもなく、そういった学問への献身は尊いものであるし、そのような学生の「学ぶ権利」は、東京大学にかぎらず、社会全体として尊重されるべきものだ。

だが、全学生への一律の値上げを阻止しようという議論を、一部の「苦学生」の御涙頂戴エピソードで補強する試みは論理的に破綻している

東大憲章の 2(教育の目標)では「東京大学で学ぶに相応しい資質を有するすべての者に門戸を開」くことが規定されている。しかしこの度、従来の高学費に加え、さらなる授業料の値上げが実施されれば、経済的な理由から学部・大学院への入学・進学を断念せざるを得ない人が、現在よりも増加することは容易に想像される。もし仮に入学・進学ができたとしても、経済的に苦しい学生は、ますます奨学金(学生ローン)を借りたり、学ぶ時間を犠牲にして学費・生活費等を稼ぐために働いたりしなければならなくなる。それは、東京大学が、ますます人々に「門戸」を閉ざすことを意味する。

学費値上げに反対する全学緊急集会「全学緊急集会決議文」

簡単な話だ。「経済的に苦しい学生」に対し東京大学が「門戸」を開くために、東京大学は何ができるか、考えてみよう。「経済的に苦しい学生」に対し、大学から奨学金や学費減免、研究助成金、学内アルバイト(TA・RA)をはじめとする支援を提供することだ。その支援のためのお金はどこから出るのか?大学の財布からである。大学の財布をどうすれば潤すことができるか?「経済的に苦しくない」(東大の場合は大半の)学生を含む、すべての学生から取るお金、すなわち授業料を増やすことだ。

授業料を増やし、財務状況を改善し、学生支援に使える予算を増やし、「経済的に苦しい学生」への再分配を拡充する。これこそが苦学生の学ぶ権利を保障する正しい循環である。逆に、大学の財務状況を一層逼迫させ、財布の紐を固くさせ、学生や研究への投資コストを削減させ、現存の学部学科や学生支援パッケージを消滅させざるをえない状況にまで大学を追い込むこと、それこそが「ますます人々に『門戸』を閉ざすことを意味する」愚行であろう。

我々学生が真に守るべきものは、すべての学生が多様な学術的関心を有し、それを自由闊達に探究し充実した環境で学修・研究を行うことができるような東京大学の環境であって、「現在の授業料」という数字ではない。
物価上昇などの大学を取り巻く経済的環境の変化によって本学の経営に影響が及ぼされた結果、学修環境の維持のために必要なコストが削減されることや、「選択と集中」による「非生産的」な学科・研究科の再編がなされることは、絶対にあってはならない。財務状況改善のための他のあらゆる方策を検討した上で、学生・教職員の学修・研究生活を維持するためにとらなければならない最後の手段が「授業料値上げ」であるのならば、値上げは学生の利益にも適うものであるはずだ。

そのうえで経済的に建設的な論点から値上げに反対するのならば、苦学生の窮状を悲劇的に叙述するのではなく、授業料値上げ以外で「大学の財布」を暖かくするための代替案を提示するべきだ。たとえば、ある企業の広告塔と化した駒場図書館の一区画のように民間企業の広告媒体としてキャンパスを提供し利益を得るとか(「優秀な東大生」を雇用したい企業はたくさんあるので、それなりに需要があるだろうが、学問の中立性という観点からはこの方針は重大な負荷がある)、入学時に世帯収入を申告させ累進課税式に学費を課すようにするとか(こういうパレート非改善な制度の導入は、かなり慎重な議論を要するだろう)、国にせびるとか(先に述べたように、これをするのであれば、大学と学生は争っている場合ではない。そして、国庫に頼るということは、国民の皆様の血税をいただくという意味であるということも、決して忘れてはならない)になるだろう。

そうではなく、大学収支の「収」を増やす試みをただ拒絶するだけの議論をするのならば、覚えておかねばならないことはただ一つだ:「支」を削減せざるをえない状況にまで大学を追い込めば、最も不利益をこうむるのは、他ならぬ我々学生の「学ぶ権利」である。

2. イデオロギー的主張

値上げ反対運動の一部陣営は、(以前から駒場キャンパスを中心に根強く存続していた)全共闘的な昔ながらの反権力的イデオロギーと結びつき、半ば政治運動と化している感がある。そういったイデオロギー的神話からアプローチする人々にとって、値上げ運動は「カネの問題」ではないようだ。彼らにとって重要なのは、「当局」ないし「体制側」が、「一方的に」授業料値上げを提案したという構造、つまり純粋な権力の問題なのである。

言ってしまえば、私の目にはこういった「運動」はあまりにも幼稚に映る。彼らが行なっているのは何ら実践的な主張を伴った「議論」ではない。ただ、権力への反抗、脱構築という彼らのイデオロギー的スタイルにとって都合のいい題材を手当たり次第に探した結果、今や時代遅れな「政治ごっこ」のための格好の遊具として授業料値上げ議論に行き当たったというだけだ。

そのようなイデオロギー的活動に身を放り込みたい学生を否定するつもりは全くない。私は東大生の本分は学問を修めることであると思っているが、別に東大生の本文は学生運動に携わることだと思っている学生がいても構わないし、彼らが駒場キャンパスで何をしようと、他の構成員に迷惑をかけない限りはその権利は保障されるべきだ。
だが、前述の経済的論点も踏まえれば授業料値上げはすべての、そして未来の学生に関わる問題だ。議論の場を彼らの過激で稚拙な政治的営為の舞台にされてしまっては、不利益を被るのは学修・研究を本分とする他の学生、特に未来の入学生となる。3.で後述するが、彼らのラディカルさは、議論を大学(当局)vs 学生という対立構造へと先鋭化させ、論争を非建設的なものへと変えているという実際上の問題ももたらしているように思われる。

イデオロギー的「学生運動」の稚拙さはもはや詳しく論じるまでもないが、せっかくなので、彼らがいかに矛盾した空虚な政治ごっこをしているかを書き連ねよう。私の主張はシンプルだ;彼らは自身の社会的な特権的立場を棚に上げ、反権力的イデオロギーを追求するという自己矛盾を体現している。彼らは日本社会において最も「学ぶ権利」を手厚く保障されている集団の一人でありながら、それに無自覚であり、自分がまさに既得権益の持ち主であることを忘れ、「既得権益」による一方的な学費値上げという陰謀によって「学ぶ権利」が侵害されているというフィクションを追い続けている滑稽な道化師だ。

具体例を混じえて書こう。
私の知人に、現在看護師として働いている方がいる。その人物は決して裕福な境遇ではなかったが、看護学校に通い、看護資格を得た。看護学校の「学費」は、平均で年100万円を超える(*厳密には、これは入学料+授業料+設備費+実習費の額であり、入学金+授業料のみしか基本的には課されない東大の「学費」とは制度が違うのだが)。参考までに、東大の授業料は53万5800円。それを64万2960円に上げるか否かという議論の最中である。

たった、というわけではないが、少なくともその額で、都内の超一等地(駒場は渋谷のすぐ近く、本郷は文京区のど真ん中)にあるバカでかいキャンパスで、世界各地のジャーナル、メディア、エンサイクロペディアを無料で閲覧することができる包括的なライセンス享受し、昼夜勉学と研究に励むことができる。東大生は「学ぶ権利」という意味では、間違いなく国内において特権的な利益を享受している集団のひとつである。繰り返す。我々は、特権階級なのだ。間違いなく、日本社会の中で途方もなく恵まれた学修環境を、最も包括的な「学ぶ権利」を、手にしている。それは、授業料が11万円上がったところで損ねられるような特権ではない。
その特権は、少なくとも悪しきものではない。難しい入学試験を突破しているという事実によって、社会的に正当化されているからだ。ただし、その自覚は決して忘れてはならない。

一部の東大生は、自身のその特権性を忘却したかの如く「反権力的」なイデオロギーへと身を投じる。今や日本のみならず、アメリカや欧州でも、左派的政治観を占めるのは一流大学の「エリート」たちの言説だ。もちろん、左派であること、革新的であることは何も悪いことではない(私も左派を自認している)。
問題は、社会的・経済的・教育的特権を享受しているはずの彼らが、かつて労働者階級が用いていたマルクス主義的神話と結びつき、よりラディカルで反権力的なイデオロギーとして暴走を始めた際に生じる。「特権階級による『特権の解体』言説」というとんでもない矛盾がそこに現われるからだ。

このような矛盾がなぜ起こり、なぜ問題なのか。先日New York TimesのコラムニストDavid Brooksが寄稿した「The Sins of the Educated Class」が、全く同じテーマに対して非常に興味深い分析をしている。
この記事が、アメリカにおいてかなりリベラル寄りなメディアとして知られるNew York Timesに掲載されたOpinionであることは強調しておきたい。直接のテーマはガザの反戦運動だが、授業料値上げの運動とも重なる部分が大いにある。東京大学の恵まれたライセンス契約によって、東大生アカウントならばNew York Timesは全記事を無料で読むことができるので、学生ならばぜひ原文も参照してほしい。

[特権的エリートが反体制的イデオロギーを主張するという]この種の認知的不協和は、しばしば急進的な効果をもたらす。疎外された人々の側に立つことが自分のアイデンティティであるにもかかわらず、Horace MannやPrincetonで働いている場合、自分自身や他の人々に、自分は本当に進歩主義的な人間だと信じてもらうために、懸命に働きかけなければならない。自分が進歩的であることを証明するために、ますます左寄りにならざるを得ないのだ。
これは、次のような現象を説明するものでもある: 社会はエリート学生たちに何十万ドルも注ぎ込み、想像を絶するような名声を与え、そして彼らはしばしば、システムを焼き払おうと最も声高に語る人々でもある。

Brooks, David. "The Sins of the Educated Class." The New York Times. June 6, 2024.

要するに、急進左派の自己矛盾が、彼らをますます急進的な立場へと後押しするという循環が存在しているのだ。古き善きマルクス主義は、その正当性はともかくとして、少なくとも「実際に価値を生み出す労働者階級」と「価値を搾取する特権階級」という社会的な矛盾に地に足をつけていた。情報化社会が到来した今(昔なららあったのかもわからないが)、知産階級/労働者階級、労働者/資本家などというわかりやすい対立構造はただの「神話」に過ぎない。反体制的イデオロギーという宙ぶらりんの道化師だけが、そこには残されている。

改めて言おう。授業料の11万円の値上げが大学当局の権力による「学ぶ権利」の迫害だというストーリーは、よく言っても学ぶ者としての社会性を欠いている(社会全体で見れば十分に恵まれた「学ぶ権利」の持ち主であることを忘却している)し、悪く言えばイデオロギーだけに突き動かされた、中身のない、極めてラディカルな主張(「『当局』という悪しき権力への反抗」という神話に縋っている)である。

3. 手続き的主張

最後に、元々はある程度筋の良いものであったはずの論点、すなわち値上げ検討のプロセスに対する批判を検討しよう。

おおよその話はこうだ。

東京大学憲章では、「教職員および学生は、その役割と活動領域に応じて、運営への参画の機会を有する」(12(大学の構成員の責務))と記載されており、大学運営に対する学生の一定の自治を認めている。
しかし、今回の授業料の値上げの議論に学生や各学部の参画する余地は存在しなかった。大学本部から突然に値上げ計画があたかも決定事項かのように下されただけである。これは、学生自治の否定である。
後付けの正当化のように開催が発表された「総長対話」も、値上げを決定路線とした「茶番」であり、学生に参画の機会を与えている「風」のパフォーマンスにすぎない、と。


(↓より詳しい実際の声明文↓)

また東京大学当局による授業料の値上げの検討プロセスも、東大憲章の趣旨に反しており、学生の大学運営への参画の機会を保障するべきである。
東大憲章の 12(大学の構成員の責務)では「教職員および学生は、その役割と活動領域に応じて、運営への参画の機会を有する」とある。しかし、今回の授業料の値上げに際して、学生が学部や本部に対して何度も値上げの廃止や情報公開・団体交渉を求めて訴えを起こしてきたものの、当局は検討中であるとして情報公開をせず、意見も聞き入れなかった。
大学側から唯一提案されたことは藤井総長による「総長対話」の実施である。しかし、教養学部学生自治会理事会の要望書(理事会文書第 411 号)への返答において、総長対話は「総長と学生の対話の場であり、交渉の場ではありません」と言明している。学生が、授業料値上げによって直面する現実の困難を、大学の運営上の課題として位置づけようと掛け合っても聞き入れられず、さらにはそのための場すら用意されなかった。大学の運営が、教職員や学生という異なる利害を有する者によって行われる以上、運営方針をめぐって対等な立場で交渉ないし調整することは必要である。その交渉・調整が、対等な人間同士によって行われる以上、その手段は対話である。十分な対話なく一方的に決定を下すことは、学生から大学運営への参画の機会を奪うことを意味し、学内民主主義への冒涜であるといえる。
以上の点から東京大学当局による授業料の値上げの決定のプロセスも、東大憲章の趣旨、具体的には12(大学の構成員の責務)に反しているといわざるを得ない。大学側は、学生の大学運営への参画の機会を保障するために、①対面で「総長対話」を開催し、学生の意見を聞き入れるべであり、②「総長対話」とは別に公開の場での学生諸団体との交渉に応じるべきであり、③大学運営にあたり、学生が根拠のある提案をすることを可能にするための情報開示をするべきである。

学費値上げに反対する全学緊急集会「全学緊急集会決議文」

この手続き的批判には、(東京大学憲章という実際の成文に基づいていることもあり)一定の正当性はあるように思われる。だが、①この議論を批判的に検討することは複数の方向性から可能である し、②この議論を中心に「授業料値上げ」に反対することはそもそもできない という二つの論駁ができるだろう。

①からいこう。学内民主主義論を批判するいくつかの方向性が思いつく。

もっとも乱暴な議論としては、そもそも、大学とはお金を支払って教育というサービスを得るビジネス機関であって学内民主主義など虚構であるというものだ。マクドナルドのハンバーガーが値上がりしたら、マクドナルドの利用客はみんな悲しい。だが、マクドナルド本社の価格決定プロセスに異議を申し立てることができる客など存在しない。それは単純に、そこに存在しているのは提供者-客という関係性であって、価格を決定する権利は提供者側にあるからである。大学の授業料もそれも同じだ、というものだ。
これは、最初に述べた通りやや乱暴な議論だ。こと国公立大学に関して言えば、その教育サービスは単なる民間市場のいち商品とは言えない(日本という国の文部科学政策のための一機関という役割があるため)し、東京大学憲章にも示されているように大学運営への学生・教職員の一定の参画というのは歴史的に認められてきたからだ。
ただ、少なくとも一面としては、大学の運営には「経営」的側面もあるというぐらいの見方は当然できるだろう。「自治」の中身を議論するにしても、少なくとも授業料の設定に関してイニシアチブを持っているのは大学側であることは認められるはずだ(学生側には「値上げをしよう!」と提案するインセンティブがなく、したがって学生から提案しない限り授業料に関する話をしてはいけない、などという暴論は大学を滅ぼしうるものであるため)。

別の論点として、対話の門を閉ざしているのは他ならぬ学生の側でもあるという主張もできる。1. 2.の論点とも重なるが、値上げ反対派の学生の声は値上げをする/しないの二元論的であり、ラディカルであり、非建設的である。大学が置かれている経済的状況を慮った上での値上げ以外の具体的な提案があるのならばまだしも、「値上げを撤回しろ!」「大学当局は悪しき権力だ!」と連呼するだけの集団と大学は何を「対話」できるというのだろう?
冷静さを失った、「値上げの撤回」の一辺倒で騒ぎ立てているだけの「反対派の学生」が来ることを予期しているのとしたら、総長対話の開催にあたって「総長と学生の対話の場であり、交渉の場ではありません」と釘を刺したくなる大学側の気持ちもよくわかる。対話の場は「値上げをする」「値上げをしない」の水掛け論をする場ではなく、建設的な議論をする場であってほしいと思うはずだからだ。
こうして、学生側がラディカルさに傾けば傾くほど大学側も強硬的にならざるを得ず、具体的・建設的な議論が失われていくという悪循環が生じる。その責任は、大学側だけに帰されるべきではない。

第三の論点は、単純に、大学側は本当に学生の参画を拒んだのか?というものである。
最初のマクドナルドの話ではないが、少なくとも大学の運営には「経営」的側面もあるし、授業料の設定に関して主導権を握っているのは学生ではなく大学側であることは自然だ。そして、少なくとも表面的には(学生からはそれがポーズだけのように見えたとしても)だが、大学は値上げの段階で学生に対し計画を公表し、「総長対話」のような場を設けてくれている。
当たり前の話として、学生は大学運営のあらゆるプロセスに参画するわけではない。授業料値上げのようなセンシティブな話題以外、たとえばどこどこのなになに事業にいくらの予算を使うとか、どんな教員を採用するかとか、大学のロゴを変えるとか、そういった決定を大学が「一方的に」進めることにたいした異存は出ないはずだ。
要するに、どのような議題にどの程度の参画権が求められるべきかというのは、完全にグラデーションの問題なのである。今回の値上げ議論にしたって、総長対話等の機会によって十分な参画が確保されていると考える人もいるだろう。どのレベルまでの態度が「学生を軽視している」か、どのような値上げ決定プロセスが「一方的」かというのは往々にして線引き問題であり、主観的なものだ。だから「大学側は参画を閉ざしている」という意見は、「我々の尺度から見たら閉ざしているように映る」という種の、主観という範囲内においてのみ正当な主張である。
「授業料はとても重要な問題である!なのだから、もっと参画を」という主張は正当であるが、正当であるというだけで、議論におけるその強さは決して強いものでもない
(補足になるが、値上げの対象となるのは来年度の入学生から、つまり、本当に対話に参加すべきは来年以降東大に入学したいと考えている高校生や来年以降に修士・博士課程に進学することを考えている一部の学生である。”当事者”ではない人々も一定数存在する「現在の学生」という対象を相手にどの程度の「対話」機会を与えるべきかというのは、主観的に意見が分かれて全く自然な問題だろう。)

他にもあるかもしれないが、一旦、思いつく反論はこれらのようなものであろう。なんにせよ「値上げの決定プロセスにもっと参画させろ!」という方向性は、元々は一定程度筋の通ったものであったように思われる。
ただしこれは、大学と対立するのではなく、未来の学生の学費、大学の運営という共通の問題について大学とともに共に並びあって話し合っていくという姿勢を学生側が保っていたのならば、の話だ。

いまや、大学 vs 学生 という対立構造を作り上げたのは他ならぬ学生であり、「大学当局」を「悪者」として吊し上げて叩き続ける方向性へと学生側が舵を切った以上、「対話」を拒んでいるのは自分たち自身であるという自己矛盾をここでも抱えるようになってしまった。彼らの「対話」の中身が「授業料値下げの撤回」という中身のない連呼に付き合ってもらうことである限り、「対話!」「対話!」「対話!」という声は駄々として響くだけの空虚なシュプレヒコールである。我々は自分たちの手で、自分たちの議論の非建設性を証明することによって、大学運営に参画する権利を自ら失っていってしまったのだ。

言ってしまえば、 ②この議論は、「授業料値上げ」に対する賛成・反対とは無関係な、大学と学生との権利の綱引きという別の論点である
だから、これは「授業料値上げ反対」論陣の中心に据えることはそもそもできない性質のものだ。端的に言えば、別に、「授業料を値上げしてもいいが、もっと決定プロセスには参画させてほしい」という立場だって全然あり得るのである。

現状大学が提示しているのは値上げ「案」であり決定事項ではない
要するに、学生はこれから値上げの是非や、するとしたらその適正な額や使い道について大学と議論すればいいわけだ。そのために、学生は急進性を捨て、建設的な議論、特に値上げ以外の代替案を大学に対して示す準備があるという積極的参画の立場を大学に対して示さなければならないし、大学は、一層値上げという意思決定の根拠やプロセス、財務状況の公開、すでに検討・実行した代替案等を学生に対して説明しなければならない。なんにせよ、これは大学 vs 学生という話ではないのだ。大学本部と学生が協力して、建設的な話し合いをすることを通じて、大学運営に関する重要な事柄を決めていきましょうよというのが学内民主主義であって、全てを学生に決めさせろ!という話ではない。相応の真摯さを、学生側も見せなければならないのである。


最後に、私の主張を簡潔にまとめておこう。強調しておくが、これは私個人の、主に値上げ反対運動に携わる東大生に向けた主張である。

値上げをする/しないの二元論に走るな。大学に対し、建設的な提案をする準備があることを示せ。大学本部は権力であり、敵であるという安易なイデオロギーに走るな。経済的に恵まれているか否かにかかわらず、少なくとも学問のための場という意味では、自身がいかに恵まれた環境で学ぶことを許されているのか。それを真摯に自覚せよ。

大学と学生が共になって、開かれた学問の場としての東京大学を守っていくために、「自治」や「権利」といった概念だけに頼った言い争いを超えた中身のある議論へと趨勢が傾いてゆくことを、切に願っている。

2024/06/14

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