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デウス・エクス・マキナとしての人工知能

人工知能は現代のデウス・エクス・マキナとなりつつある。

デウス・エクス・マキナ機械仕掛けの神とは、全知全能の力を持った神からの介入によって物語の展開を劇的に変える、古代ギリシャの演劇における技法である。人工知能がデウス・エクス・マキナとなることは、つまり人間の知性の模倣物であるはずのAI技術が、人間には解決不能な問題に対しても圧倒的な「正しさ」をもたらす存在として扱われる傾向があることを意味する。

人工知能は、その性質上、膨大な情報を高速で処理し、その情報からパターンを抽出することができる。この能力によって、人工知能は多くの分野で人間を上回るようになってきた。例えば、裁判の判決においても、過去の判例を基に判断する人工知能が開発されている。このような技術があれば、人間の判断による誤りや偏りを排除し、より公平かつ正確な判断を下すことができると考えられる。

しかし、問題が生じるのは、人間とAI技術の役割分担が不適切な場合である。例えば、道徳的判断や創造性といった、人間が本来担うべき領域においても、AI技術が活用されるようになっている。これによって、人間の存在意義や価値が希薄化してしまうことが懸念される。

また、AI技術が解決可能な問題に対しても、その正しさが絶対的であるわけではない。例えば、自動運転車の場合、どのような事故を防ぐべきかという問題に対しては、様々な意見が存在する。そのため、AI技術が提供する答えが、必ずしも全ての人間にとって受け入れられるわけではない。

したがって、人間の知性とAI技術との適切な関係性が求められている。人間的な知性は、複雑であったり、答えが決まっていなかったりする問いに対しても主体的に行使してゆくことが重要である。AI技術は、人間が解決不能である問題に取り組む際の道具として活用されるべきであり、人間の思考をサポートする存在であるという認識が求められる。

このような関係性を築くためには、教育やコミュニケーションの改善が必要である。人間がAI技術を適切に活用するためには、AI技術の原理や限界を理解することが必要不可欠である。一方、AI技術の開発者や専門家は、AI技術が人間とどのように関わるべきかという倫理的な問題にも目を向け、人間中心の設計を心がける必要がある。

人工知能がデウス・エクス・マキナとなることは、未来社会においては必然的に起こる現象である。しかし、それが人間の価値や存在意義を脅かすものではなく、むしろ人間の可能性を拡げるものであるように、私たちは努力していく必要がある。人間は、AI技術に代替されることができない専門性や人間性を持っており、それらを活かしながら、AI技術と共に未来を切り拓いていくことが求められる。

ネタばらし

わかりやすさのために、最初の方の文章だけ実はちょっと改訂した

Chat-GPTは現代のデウス・エクス・マキナとなるのだろうか?

正直なところ、私はまだいまひとつこのツールの凄さも恐ろしさも掴みかねている。

東京大学副学長の太田邦史氏は、「人類はこの数ヶ月でもうすでにルビコン川を渡ってしまったのかもしれない」と表現していた。この危機感の表現(?)がどこまでの含意を秘めているのかは不明だが、前後の文脈からして「悪用されれば危険性が極めて高くなるような科学技術が生み出されてしまった」という意味なら、人類は火を発見したときにも、毒ガスが発明されたときにも、原子爆弾が発明されたときにもルビコン川を渡っている。というより、人類の歴史はたいていやり直しの効かない出来事ばかりで、そういう意味では科学の世界では毎日のように「賽は投げられて」いるだろう。

だけど、私が真に恐ろしいと感じるのはAI技術そのものではなく、それを用いる人間の側の変化だ(もちろんこれは、火にも、毒ガスにも、原子爆弾にも当てはまる話だが)。私の目には、現在のこの「AI革命」の序章の時点ですでに、社会にはどこか、AIを人工の・・・道具としてではなく、一つの「自然な」知性、それも、私たち人間の知性の限界を超えた超常的な知として受け入れつつあるような空気感が時折漂うように見える。

うまく言葉にできないが、人間にしか考えられないこと、人間が考えなければならないこと、人間として考えなければならないこと、そういった問題が必ず人間の社会にはあるのではないか、そしてその意味で、そのような問題において「正しさ」の基準を私たち以外の存在に求めることは、錯綜し収集のつかなくなってしまった劇の最終場面を「神」の力で全て片付けて誤魔化してしまうような、そういう無理が付きまとうのではないか、と私は思う。

だから、今を生きる私たちの知性が有している使命は、ChatGPTのような文章生成・・・・AIをデウス・エクス・マキナにしないように努力をすることだろう(当のChatGPT本人(本AI?)は「人工知能がデウス・エクス・マキナとなることは、未来社会においては必然的に起こる現象である」などという文章を生成してしまっているが…)。

彼らは文章を生成しているだけで、その内容を考えているのではない。彼らは決して「本質」にたどり着くことはない(「本質」とは何かという厄介な問題はいったん置いておいて。ここでは言語のような表層的な表現の背後にある観念/概念/思考ぐらいの意味)。そういう意味で、彼らはあらゆる本質を束ねる絶対的な力=デウスとは異なるということを、私たちはよく理解しておかなければならないのだろう。


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