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Fictional World, Functional Life _4

「これはさ、仮定の話だけど…」

彼方からゆらりと近づいてくるように波の音が、不快にならない程度の緩やかさで耳に入ってくる。ひとしきり愉快な気持ちに体の主導権を委ねてから、自分を取り巻く環境の主張に耳を傾けられるほどには常の落ち着きを取り戻し始めていた。

「お腹が痛くなることってあるだろ?」

「何を仮定してるんですか?」

「まだ途中。」

相変わらず呆れ調子ではあるが、ようやく会話の開催意図が明確になった話題となったからか、彼女の先の不安も霧散し、常の微笑を浮かべている。

「それがさ、ずーっと続くとするじゃない?
良くなる気配は一向になくて、それが原因で何を食べても味がしなくて、楽しかった娯楽も楽しめない。
そんな状況になったとしたら、君はどうする?」

何もない空を眺めるでもなく目を向けながら、ゆるりと間延びした言葉が自身の口から聞こえてくる。

「どうする、とは随分と漠然とした質問ですね。」

彼女の指摘はもっともだ。我ながらどうにも要領の得ない、回答者を試すような質問だな、と思う。自ら提示した問いであるが、解が不明瞭である故に思考能力のリソースの大半をその問いに割いている現状だった。

試されているのは自分も同じということか。

彼女の声音にはわずかな困惑があったが、それが嘘であったかのように、発された言葉が届き終わらない間に、すでに深く思索に入り込んでいる。感情が急速に失われたような様子は、精工な彫像のようであったが、緩く開いた左手の親指が添えられた唇のわずかな揺れは、彼女が一個の生命であることを告げている。

「鎮痛剤を飲みます。」

三つ呼吸するほどの時間で彼女は自分の中の解に辿り着いたようだ。
まっすぐにこちらを見て、彼女らしい竹を割ったような明瞭さで回答を口にする。

拡大解釈の余地もないほどに、簡潔で、明確で、普遍的な回答。
ぼくには真似できない。

「うん、合理的だ。」

目が覚めるほどに。

「では少し前提を追加しよう。
その腹痛はどういうわけか長い間治らない。ずーっと痛いんだ、鎮痛剤を飲んでもひと時の安らぎは得られるだろうが完治するわけじゃ無い。
そんな前提。」

「完治させる方法を探します。それが存在しないというのであれば、ひと時の安らぎの為に生きます。」

当意即妙。そんな言葉が浮かんできたが、彼女においてはこの問答の解は先の熟慮でおおよそ明らかになっていたのだろう。
ぼくが脳みその端の方のリソースで、ぼんやりと会話の体裁を保ちながら、大半の思考能力をもってして、問いをあっちこっちに転がしている中、彼女はすでに彼女自身の中で何らかの境界線を持つことができていたようだ。

「そう。そっか。」

目線はぼく自身の意識の多動性を表すかのように、舞う埃を追うようにふらふらとしていたが、やがて引き寄せられるように再び空へと向かっていた。
さっきと同じように空を見上げる。そこには当然の如くさっきと同じ空が広がっているが、何もないほどに何かを探してしまう。白い部屋の内壁に薄っすら見える凹凸のパターンを探すように、ぼんやりと眺めてみるが灰色の空にはぼくが認識できるような目につくパターンはなかった。

「なんか自死という選択に誘導するような問いかけでしたけど、それが先生のおっしゃる自殺に至る考えということですか?」

気づかないうちに流れてしまった沈黙をそっと押しやるような彼女の声が、僕の意識を会話に引き戻した。
人はなぜ自殺をするのか。この命題が会話の発端であり、仮定を弄している理由だ。

「えーっとね、実を言うとね僕も君とほとんど同じ考えなんだ。だからさっきの君の質問への回答はノーだ。
きっとこの仮定で僕は自死を選ばない。」

寝起きのように徐々に体が覚醒していく感覚を覚えながら、言及している命題に対して言葉を紡いだ。
そう、ぼくも彼女も、この仮定だと自死を選ばないのだ。


「ではこの仮定は、なぜ人が自殺するのかという話にどう関わってくるんですか?」

それは疑問の体を成していたが、夏の木陰にある涼やかな風のような、整然として、爽快で、迷いのない響きがあった。
彼女の質問に際し、荒くうねっていた思考の乱流が徐々に一つの流れを形成していくのを感じ、満ち満ちたコップの水を流すような慎重さで、薄く息を吐きだす。

「それも一端ではあるからね。
というかまぁきっかけかな。」

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