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Fictional World, Functional Life _5 | 2/2

「定量…」

彼女はぼくの言葉を咀嚼するように、同じ言葉をつぶやきながら、視線だけを細かく動かしているが、その目には注意を向ける具体的な実像があるわけではないようだ。その理由というわけではないが、左手の親指を唇に添える彼女の思考するときの癖を無意識的に披露している。

「納得はしてなさそうだね。」

彼女の思考を遮ることに些かの抵抗があったが、思わず声をかけてしまう。彼女はぼくの声に、多方面に動かしていた視線をこちらに向け、思考がまとまっていないだろうに律儀にも返答する。

「それは…そうでしょう。」

ぼくの意見に対して、彼女は無意識下ではそれはおかしいと思っているようだが、何がおかしいかの道筋はまだ見つかっていないらしい。

「さっきの仮定だけどさ…」

手助け、なんて高尚な心持は未だかつて持ち合わせたことはないが、せめて嚙み下せるほどには、言葉を尽くしてみようと思い続ける。

「冷静に考えてさ、高層階から落ちるのと火の海に飲まれる選択の二つがあったとして、そりゃ火に飲まれたらほぼ確実に死ぬから落ちた方が幾分か生き残る確率が高いのはわかるけど、
どっちの選択も普通に生きてたら選択したくはないよね。」

おおよそ一般性から、平均値から逸脱した生活をしていない限りは、火事に巻き込まれない限りは、高層階から飛び降りる選択も、火の海に飲み込まれる選択も、そしてその二つからどちらかを選ばなければならないシチュエーションにも出会うことはないだろう。そして平時であれば、これらの状況で選択するなんてことは、相当酔狂な人物でなければまっぴらと感じるだろう。

「だからさ、この仮定からわかることは、いずれの選択肢を主体的に選び取ったとしても、そいつは正気じゃない、ってことだよ。」

平時では選ばない選択肢を選ぶやつは、時は、正気ではない。考えずとも導かれるような単純で、論理ともいえない論理。

「そんな状況で正気でいられることの方がおかしいんじゃないですか?」

彼女もおよそ同じような感想を持ったのか、何を当たり前のことを、と言いたげである。

「そう。死ぬためにしろ生きるためにしろ、いずれにせよ正気では成しえない。逆説的に言うと、正気でないから成しえると表現できるね。この場合における命題の逆もまた正であるかはさておき、正気でないことと、いずれかの選択肢を主体的に選ぶことには相関がありそうだね。正気の喪失が行動の選択の背中を押しているんだよ、文字どうり、ね。」

彼女はついには、わかったようなわからないような困り顔を浮かべ黙りこんでいる。わかりやすい言葉でこんこんと説明して彼女の理解と足並みをそろえながら話そうかとも思ったが、一瞬でその意見を棄却する。理論に手心を加えて易しい言葉に置き換えるのは、理論の希釈であり、何より相手への敬意の喪失だ。易しさへの交換の代償は、情報と解釈の余地の損失である。

「さっき火事場での仮定で錯覚の話をしたね。そう錯覚なんだ。」

ぼくは彼女を見ずに話を続けた。彼女の様子を慮る気持ちもあるが、今は論理を紡ぐ口が止まってくれそうになかった。

「どちらを選んでも生き残れる確率は限りなく低い。けどほんの少しの差異で片方の選択がより魅力的、より優位に見える。人はそういう錯覚を見るように出来ている。」

これは仮定の外からの理論ではあるが、錯覚というのは人に馴染み深い現象だ。現実を映し出す視界も、二つの目には像を認識できない穴があるにもかかわらず、主観的にみる景色は常にシームレスで程よいフェードがかかっている。見ている世界からして錯覚に依るほどに、錯覚というものは主観的感覚に干渉している。

「もしもね、全ての生物の中で人が唯一自死を選択できる動物だとするならさ、二者択一の些細な差異、その錯覚を過大評価することこそ、唯一人がもつ能力ということになるね。」

規定された命題の議論を超え、話題という囲われた柵を超えて、どこへ行くか分からない何かが、思うがままに、幼稚に言葉を練り合わせ、織り合わせ、紡いだ論理を滔々と続ける。単一に存在していた言葉がネットワークを作りやがて一つのコミュニティという意味を持って、世界に吐き出される。

「つまりこの場合、人を人たらしめているもの、動物と人を隔てるもの…」

「それは錯覚なんだよ。」

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