見出し画像

Fictional World, Functional life _3

「はぁ」

ぼくの誠実さは彼女には届かなかったようだ。
人の気持ちに報いることは難しい。拾い損ねた忘れ物が部屋の隅にあるような、ほんの少しの気がかりを感じながらも、この混沌の端を発してしまった説明責任を果たそうと口は滑る。

「まぁここでは三者の違いは一旦置いといて、面倒だから一緒くたに意識にまとめてしまおう。」

「私はまだ納得してないんですが…」

「うん。」

どう説明したものかと思索の海に潜り始めようとする意識のすんでのところで、彼女が何かを言外に伝えようとしていることにふと気づく。預けていた体をいつの間にか起こして、注視するというにはやや批判的な目つきでこちらを見つめている。
もし視線に力学的な作用が働くとすれば、今この瞬間ぼくと彼女の間の空気は粘性を帯びているに違いない。

「で、嫌なことを意識するから人は自殺をするという話だったね。いやこの場合、意識に上るから、というニュアンスの方が適切かもしれないね。」

粘性の空気の中で滔々と語ってみるが、この空気を新生する一陣の風は起こらない。

「はぁ」

辞書に参照されてもおかしくないほどに、疑うべくもない溜息。彼女がぼくとの会話の最中、”はあ”と発音するのはこれで3回目だが、似た発音でも文脈や関係性の違いでこんなにも明確に感情の違いを表現できるのだから、言葉というものは辞書にある字面以上の多様性を内包しているらしい。それを使いこなす彼女のコミュニケーション性能に内心小さな賞賛を覚える。自らを客観視することは原理上難しいが、ぼくはその点においては非常にポンコツだ。

「ところで”意識に上る”という言葉は、些か以上に不可解な表現とはおもわないかい?デカルトの心的実在が画期的な哲学的知見だと喝采されていた時代ならいざ知らず、無意識や一部の特定の心理現象を除くほとんどの意識が脳という複合器官による専業的領域だとわかってきたこの時代において、意識が下から上がってくるというアイディアには疑問を覚えざるを得ない。
それともこの言葉を未だに疑いなく好んで使う人々の意識は、お腹からでも端を発しているのかな。」

ぼくは彼女の混沌をなだめるように笑い掛ける。その甲斐あってか、いくばくか空気の重さが取れたような気がしてくる。
彼女はようやく滞留した空気を洗い流すように、深く吸った息を薄く延ばして吐き出す。こんなやり取りも慣れたものだろう、どうやら気持ちの切替はつつがなく済んだらしい。ただ、この切替がコミュニケーションスキルの洗練の結果であるならば、慣れたのは彼女だけであり、ぼくのジョークの甲斐はなかったということになる。おそらくその通りなのだろう。客観視が難しいならば、こと非言語的コミュニケーションにおける無能さを少なからず自負しているぼくは、自らの想定以上のポンコツなのだろう。たった今それが証明されようとしている気がしてならない。

「それでなんでしたっけ?」

「獲得的非言語性コミュニケーション障害」

「なんのことですか?あぁ、嫌な経験からくる意識から人は自死を選ぶという話でしたよね。この先に進むには”嫌だと思う意識”を想定する必要がありそうですが、先生は何か思いつきます?」

先ほどまでの換気の悪い小部屋のような空気はどこへやら、彼女は腕を体の前で緩く交差させて、わずかに上半身を前傾させている。その顔には好奇心を隠さない積極的な楽しさが浮かんでいる。
気まぐれな春一番のような思索の乱流がピタと止み、ぽーっと、彼女の顔を眺めてしまった。
向き合った時間の分だけ追いかけてくる気恥ずかしさから逃げるように、視線を不自然の無いように流しながら、また思索の風を自身の内側に送り込む。

「僕はすこし…いや、どうだろうな。」

止まった流れを再び呼び起こすには時間が足りなかったと思う一方で、自分の歯切れの悪さにわずかに驚嘆した。饒舌でないことに驚いたわけではない。そもそもぼくは自分をして饒舌と評することはあまりない。こういう時、自分の中で意図せず堰き止めている顕在化されてはいないが、強い実行力を持った無意識的意見があると経験的に知っており、それがこんな、おおよそ人生に意味をもたらさない問答の中で発見された、ということに驚きを感じているようだ。
ぼくが急に黙り込んだことに対して、何事かと不思議そうな顔を彼女が向けてくる。ぼくは急におかしくなって破顔した。

「そうか。そうだね。」

抑えきれなくなった愉悦がククと口から洩れてくるぼくを見つめ、変わらず不可解という表情を浮かべている彼女。あるいはおかしいのはあなたでは?という意味かもしれないが、この瞬間のぼくがおかしいということであれば、記憶する限りぼくはずっとおかしいということになる。
ぼくは彼女の不可解、あるいは心配を取り除こうと口を開いた。

「君の言う通りだ。」

「じゃあ仮定して、想定して、それらを規定してみようか。」

ここに至り、初めて教鞭を持つものらしいことを口走った。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?