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告知から二週間後

今の生活が出来るのは2年程度だろう、と事実上よ余命宣告をされた直後から何も喉を通らなくなってしまった。常に酷い二日酔いのような状態で水も飲めない。一日中寝るしか出来ず、作ってくれたお粥を食べては吐いて泣く生活の繰り返しだった。
ショックで寝込む、ということは本当に起こるんだなぁと心の何処かで呑気に考えていた。

「3割の確率で転移ではない可能性があるので、肋骨の再MRI検査をしましょう」

そう言われて、告知から一週間後に再検査を行う。
閉所恐怖症の私はこのMRIが苦手で、しかも今回は仰向けで撮影するので天井が見えて圧迫感が半端ない。入って拘束されると冷や汗でびっしょりになる。途中中断を入れながら何とか撮影。画像診断だけなら翌日の治療日には結果が分かるそうだ。
分かりたくもない気もするが……

翌日、兄が同行して今後の治療の説明を受けることになった。転移と診断し、摘出手術も抗がん剤治療も行わず、ホルモン治療に移行するのか、それとも3割の確率で転移がなかったとなるのか。

「MRIではいい結果が出てます。周囲に腫瘍は見当たらず、肋骨も外傷と出てます。CTと骨シンチとMRIと全ての結果が異なるので、明日医師全体のカンファレンスで診断をし最終診断を出しますが、一番精密なMRIの結果が優先されることになる可能性が高いです」

主治医から告げられた。
一週間ぶりに嬉し涙が溢れる。生きていられる!もう自分のことしか考えられなかった。
この日は予定通り治療を受けることとなり、最終診断のカンファレンスは翌日行われるので、明後日には電話で結果と今後の予定が告げられることになった。

治療前に兄と大喧嘩になる。
兄が本人に告知をしないように主治医に告げたのだ。
ショックで寝込んで体重を更に減らすようなストレスを抱え込んだのだから、本人に余計なストレスをかける告知はやめて、家族の自分に言ってくれたら間接的に本人に伝える、と。
冗談じゃない。
「自分のことなのに何故自分が一番何も知らない状況なのか」兄は「伝え方を変えるだけで知らせないんじゃない。ストレスが少ない状態にするだけだ」と言う。

「分からずに不安を抱えて待ってる期間の恐怖はストレスじゃないのか。自分の判断で何もかも決めないで欲しい。自分の病気の選択は自分でしたい」
兄は全く話を聞かない。自分の良かれと思ったことを主張するだけ。もういい、黙って従えということかと吐き捨てて化学療法センターに行った。

「自分ではまた違うストレスを与えるから駄目だ。ここは息子か甥(兄の長男)に同行を頼むしかないな」と兄は当日に母に言ったそうだ。二人とも過剰な干渉をせず、責任を取れない自分達が自分の意見をゴリ推せないと考えるタイプなので、人と衝突することが殆どない。今どきの若い人は皆こんな感じなのか。

翌日。

午前11時に電話が来た。

MRIの画像診断が優先され、抗がん剤治療は再開、予定通りの治療になるそうだ。心からホッとした。
一部予定が変更したのは7月20日から更に強い抗がん剤を使ったddAC療法に入る予定だったのが、これを術後に行うことになり、現在の抗がん剤がかなりよく効いてるので、術前まで延長して続けることになった。最大限に抗がん剤を効かせながら体力も温存していくのだそうだ。

ただ、摘出箇所が広範囲になり、予後が悪いことが予想されるので入院期間も長くなり、術後は大変だろうと告げられた。抗がん剤治療も来年まで続く。
もう、生きて健康な生活に戻れるなら片乳だろうが片腕だろうが何でもいい、という気持ちだった。

7月21日、現在。
食欲は以前の半分程度になってしまったとはいえ、食欲は出てきた。薬のおかげで手足の痺れや背中の痛みも激減した。癌の痛みもない。かなり快調だ。

転移ではない。3割の確率を引き当てることが出来た。嬉しくて帰宅後、直ぐに家族に告げた。兄にも改めてお礼と報告の電話をした。

「3割ってガチャの確率やと相当高いで」と息子。
「再発と転移の可能性も上がるやんけ!」と突っ込んだら「引こうと思ったら引けない。病は気からって言うやん!!」と適当なことを言って逃げていったが、あながち間違いではないかも知れない。

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