検査結果と告知

3ヶ月の化学療法治療が終わり、術前のddAC療法に移れるかどうかの検査の日がやってきた。
3ヶ月前と同じくエコーとCT、骨シンチ、胸部MRI、今回は遺伝子検査もある。
3親等内に乳癌で45歳までに亡くなっている身内が二人いるので、医師から強く検査を勧められたのだ。基本、遺伝子検査は自費のようだが、私は3親等内に癌で身内を数名亡くしてるという保険適応の条件を満たしてるので、高額医療の範囲で検査が出来た。

治療を続けて3ヶ月。前のような腫れや痛みは無くなっているが、背中全体に痛みがあったり、食欲が減退し体重が一気に減ってる状態から「良くもなっていないんじゃないか」と予感がしていた。

一週間後

化学療法治療前に毎回診察を受けることになってる。今回は検査結果が判明する日だ。今回はどうしても結果を早く聞きたい、と母が強引についてきた。

『順番にお話していきますね』

主治医のこの言葉からあ、転移が見つかったなと察した。とりあえず妨げずに黙って聴く。
リンパ節、右乳房の癌の大きさは半分以下になっている。やはり抗がん剤がよく効くタイプだった、とのことだ。左の脇や背中の痛みがあったので左転移がないかと思ったが、それは全く問題ないそうだ。

ただ、右の肋骨。

最初のCTで治りかけの傷のように写っていて、この付近に大きな怪我をしたことがあるかと訊ねられたことがある。一年前に大きな怪我をして入院したときに肋骨を痛めていて、それを話すと「ああ、それなら骨折跡かな」と話は終わっていた。
大きさ的には5mm以下で、腫瘍の影には見えず治りかけの傷のようにしか見えないらしいが、骨転移ではないかと診断が変わったそうだ。

転移があれば治らない、手術もしない、と前から聴いていた。

「摘出手術で何とかなりますか?」
『どうにもならないですね。今の右乳房と脇の癌の全摘出は出来ますが、転移となると全身に癌が回ってるので当院では抗がん剤治療も手術も行いません。2ヶ月に1度のホルモン治療で癌と付き合いながら生きる治療に変わります』

「5年生きられますか?」

(医師、少し考える)

『健康な人と同じ生活が出来るのは2年程度ですね。5年は生きられるでしょうけど10年は不可能です。5年のうちの大半は寝て過ごすことになるでしょう』

ここまで母は唖然として聴いていたが、

「転移はないから完全治療を目指せるって言ったじゃないですか!誤診だったんですか!?何とかならないんですか?癌センター紹介してくださいよ!!」

号泣しながら医師にすがりついた。
いたたまれなくて涙が勝手に流れて止まらなかったが「先生を責めても仕方がない」と母を宥めた。
母は暫く泣き伏して、その場で立ち上がれなくなってしまったのて看護師に連れられて別室で休むことになった。

「寝たきりの生活を何年も送りたくはないです」

『日本にはまだ安楽死は導入されていないので、その患者さんの意思は反映されないんですよ。治療方針が変わるので今日と次回の抗がん剤治療は任意でも構いません。どうされますか?』

「高額医療の適応に入ってるので今回は受けます」

『では、来週肋骨のMRIを撮ります。その結果を会議にかけてもう一度診断します。3割の確率で転移ではない可能性がまだあります。そこでどうするか治療方針をお話します。出来ればお母さんではない身内の方の同行が宜しいかと』

「分かりました」

『初診の頃から思っていたことですが、○○さん(私を指して)は本当にタフというか気丈な人ですね。ここまで告知を受けてペースを全く変えなかった人は初めてです。この強さがあれば克服出来るんじゃないかと思ってますよ』

「ありがとうございます」

『はい、それではまた検査後に。行ってらっしゃい』

診察室を出て、受付で母の様子を訊く。
化学療法センターで受け付けを済ませて待ち時間の間に休んでる部屋に迎えに行き、タクシーを呼んで帰宅して貰った。

パクリタキセルの点滴を受けてる間、遅ればせながらようやく涙が出た。自分は母をあんなに悲しませて、先立つことになるなんて最後の最後まで親不孝しかして来なかった、ようやく母に楽に隠居して貰える生活を提供出来たと思ったのに、死にたくない生きていたい、様々な気持ちが交差してアイマスク代わりにハンカチを当てて、看護師さんに悟られないように泣いた。

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