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氷雪の王子


「おまえは、だれだ…」
王子の喉から、聞き苦しい声が漏れました。
彼が城の一角の塔に幽閉されてからというものの、世話を申しつけられた牢番数人のほかは、訪れる者はありせん。
王子はもはや、皆に忘れ去られているようでした
皿に盛られた食事は、牢の前に置かれるだけです。
週に一度は盥がおかれ、体を洗うこともできました。
ただ、それだけでした。
誰も彼の名を呼ぶ者はなく、彼を必要とする者もありせんでした。
長く声を発しなかったので、王子は話し方を忘れていたのです。
ひかりは言いました。
「わたしは、ひかりです。あなたの中の」
「私の中の、だと…?」
王子は、片頬を歪めました。それは笑おうとするときの彼のくせでした。
自分の中には氷と雪しかないことはわかっています。あたたかさなど、存在するはずがありません。
ひかりは笑って、言いました。
「雪あかりというものが、あるではないですか」
「雪あかり、か。月のない夜なら、いくらか役に立つだろうな」
「ええ。やさしい灯りで、なかなか良いものですよ」
ひかりは言って胸を反らしました。
「分けても子供たちは、わたしのことが大好きです。雪あかりがあれば、日が落ちたあともずっと遊んでいられますからね」
王子はだまって、鉄格子から落ちる影の形を見つめていました。
「私は…、みんなに嫌われていると思っていた」
「一体誰が、そんなことを」
「よくは知らぬ。私は、他人に会えないから」
「誰が、あなたを嫌っているのですか」
「私が、私自身を…。嫌って、いる」
「そんなことは、ありません。さあさあ、こちらへ出てきて、わたしといっしょに踊りましょう」
ひかりは調子良く、王子を誘います。
古びた木靴の爪先が、格子の前に進み出ます。
鍵はとうに錆びて朽ちており、作り直そうとする者さえいなかったのでした。
「なんとあなたは、閉じ込められていたわけではなかったのですね」
「ここから出ても…することがない」
王子はぎこちなく言葉を呑みこみ、軋む扉を押し開けて歩き出しました。
ひかりは彼の肩に戯れ、きらきらと話しかけます。
「ねえ王子さま、あなたは気がついていなくても、わたしが一緒にいたのですよ」
「……知っていた」
光は闇以外をすり抜けてまっすぐ進みます。
ですから王子が皆に忘れられている間も、光だけは常にそばにあったのでした。小さな一羽の、小鳥のように。
色褪せたマントが、ひるがえります。
王子の衣装は時代遅れになっていましたが、ここには笑う者はおりません。
王子は自由に踊ります。
ひかりと戯れ、光に踊る。
そうして、牢獄の前に射す月明かりには、小さな水たまりだけが残りました。
氷雪でできた王子の体は笑うと熱くなり、すぐに溶けてしまうのでした。
天辺に牢を備えた高い塔のほとりには、小さな池がありました。
ゆらめく水の面には、光が映っておりました。
光に透ける人影は、マントを着た誰かの姿をしているようです。
誰に咎められることなく、今もひかりと踊り続けているのです。

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