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進路に迷ったら通学時間の短さで選べ

小学校から高校まで、私は一つの学校に通っていた。徒歩とバスを合わせて、通学時間は大体30分くらいだった。寝坊してバスでは間に合わないとなっても、タクシーを使えばまだなんとかなる――先生に見つからないよう正門前を避けて車を停めれば――距離だった。
この通学時間の短さ、通学環境のストレスの少なさというアドバンテージを知らずにがり勉に全振りしていたので、通学時間の長さゆえに疲れ果てて授業中に居眠りしているクラスメイトの辛さなど、全く理解していなかった。
がり勉に全振りしたにもかかわらず、私の大学選びはいい加減である。勉強したいことやりたいこと、将来目指したい道なんて、高校生の頃にまともに決めるどころか調べることもしていなかった。小学生の考える将来の夢レベルの解像度だけで、自分の成績で受かりそうなところで一番偏差値の高いところ、なおかつちょっとは興味を持てて、潰しの利く学部。ここに下宿せずに自宅からという条件がついて、候補に残ったのが国立O、滑り止め私立D、Oを諦めて安全策で国立K、であった。
結局OとDを受験して、Oに進んだのだが、今となってはKにしとけばよかったよなと振り返ること多数である。その理由が、通学時間の長さだ。

実家の最寄駅は特急停車駅だった。JRも私鉄も使える。だから、甘く考えていたのである。OだろうがDだろうが楽勝で通えると。しかしOに通うには乗り換えを含めた電車の乗車時間だけで45分、ドアトゥドアで90分かかった。Dならば更に乗り換えが増えて、110分かかった。これがKならば、乗り換えなし6分乗車で徒歩を含めて45分で済んだのだ。往復でもOやDの片道分である。往復で、一日当たり1時間以上の差が出る。疲労だって少なく済む。
この分が、学習時間の差になるのだ。単純に一日1時間としてもちりも積もればである。
この分が、大学生としての活動時間の差になるのだ。例えば課外学習、講演会やボランティアに出かけること、就職活動に向けての企業訪問など。

まさか自分の通学時間は他の人にとっても通学時間であり通勤時間であることなぞ志望校を選ぶ段階で想像していなかったし、バス通学しかしたことがないために電車の混雑のいやらしさも知らなかった。法学部の教科書、六法を持ち歩くことのしんどさなぞ思いもよらなかった。
電車の中で勉強ができるのは、空いた時間や空いた路線だけだ。京阪神間の通勤時間帯の特急電車で、身長160センチ未満の女がハードカバーの法学の教科書なりA4サイズの語学の教科書なりを開くスペースなどありはしない。電車を降りてから大学まで20分、上り坂を歩く。教科書の角で破れそうなカバンを肩に担いで(これも今思えばとっとと登山メーカーのリュックサックにでもしておけばよかったのに、若気の至りでプラスチックのブリーフケースなぞ使ってみたり)。
朝の電車で座れることはほとんどない。帰りは遠回りして始発駅乗車にして一台見送って座れる。疲れているので帰りの電車はほとんど寝てしまう。
荷物は重い。もう一度言うが、法学部の学生はポケット六法を持ち歩く。それと別に教科書。今思えば真っ先に切り捨てるべき、化粧ポーチ。リプトンの紙パック。

私は身をもって学んだ。
通勤や通学なんぞ短い方がいい。
その時間で思考のリセットができるからある程度の長さが必要だという話もあるが、限度、程度がある。
徒歩、自転車、自家用車での通勤通学なら多少長さがあってもいいだろう。公共交通機関での移動は不可抗力が多すぎる。特に女性なら、体格的なハンデと性犯罪その他への警戒とで無駄な労力を使うことを強いられる。
そう、無駄である。人生において何をしている時間を削りたいかと言われたら私は絶対に「移動時間」と答える。

まあ、言い換えれば大学選びの時点でこの失敗をしておいたからよかったのである。これがなければ会社選びの際に、長めの通勤時間を許容してしまい、結果的に学生時代より衰えた体力とより厳しい生活、パンプス着用によって、かなり苦しむことになったに違いない。パンプスで乗車時間45分とか仕事前になに疲れさせてんねん以外に言葉がない。

会社選びも、家選びも、人生において影響の大きい決定である。
そっちで「こんなはずじゃなかった」と思うよりは、学生のタイミングで失敗しておいてよかったのかもしれない。早い段階での、致命傷にならない失敗は必要なのである。

アホみたいな偏差値一辺倒主義での志望校の選択があったから、私は今時間の大切さを深く考えられるようになったのだ。

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