RTAに見る時代の変遷とその影響

風呂上りにドライヤーをかけても髪が完全に乾くまでに若干の時間がかかる。

濡れたまま寝るとハゲやすいらしいので、乾くまでの間頭の体操でもするかということで最近思ってることとかその辺を文字に起こしてみようかと思った次第です。

あんまりまとめる気はないのでとりとめなく書いていくと思います。読みづらいと思いますがそもそも読み手を意識して書いていませんのであしからず。横文字とか連発する気がしています。

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時代は変わった。それ自体は何も悪いことではない。それが悪かったら今頃烏帽子を被って和歌でも詠んでるかもしれないし最悪アミニズム的信仰の下なんか呪術的なことをやってるかもしれない。

問題はどこにあるかといえば変わり方である。何がどう変わってどうなったのか。そこに対してどう考えるか、というのがとても大事な気がしている。ただ、昔はこうだった、今はこうだから嫌だ、不満だ、とネガティブなことばかり垂れ流すことを世間では「懐古厨」、「老害」と呼ぶ。できるだけ客観的に見つつ、言えることは言っておきたいと思う。

タイトル通り、何が変わったかといえば「RTA」というものに対してである。一番何が変わったかといえば、とにかく「人が増えた」ことなんじゃないだろうか。言い換えれば、「知名度が上がった」とか「敷居が下がった」とかだと思う。ひと昔前に比べてツイキャスの流行やyoutuberが世間で当たり前になってきたことも大きいと思う。自分たちが配信を始めた頃に比べて、「配信をしています」と大手を振って言えるようになったのは間違いないとは思う。

さて、「人が増える」とどうなるか。セクシー構文的に言えば「人が増えるということはつまり人が増えたということ」であります。もうちょい人間の言葉っぽくすれば、「いろいろな人が増えた」といえる。「いろいろな人が増える」とどうなるのか。「いろいろな考え方が出てくる」ようになるんだろう。

「いろいろな考え方」は、「人」のいろいろな出自に大きく左右される。RTA界隈で「一番人が増えるであろうところ」はどこだといえば「RTA in Japan」であることに疑いの余地はないだろう。だとすれば、増えた「人」は、「RTAを見ること自体初めてないしはほとんどない」という層がほとんどを占めるのではないか。

ならばその「考え方」は、「自分の知っているゲームがこんな遊ばれ方をしているんだなぁ」だとか、「なんか壁抜けてる面白い」だとか、そういった類になり、簡単な言葉でまとめれば、「ライト層」という言葉になる。誤解を招く可能性があるので先に断っておくと、別にライト層にはなんのネガティブ感情もない。「新参責めるな来た道だ。古参なじるな行く道だ。」である。

「ライト層」は何を好むか。はっきり言って、日頃やり込んでいる人達のような専門知識やコアな話には興味はないのではないかと思われる。せいぜい、「これは何フレームで~」とか、「ここで壁を抜けます」とか、いわゆる「スーパープレイ」の類など、「インパクトがあって面白いと思ったもの」に寄り付く。実際、RiJで人気の出たものは名前のインパクトであったり、汎用性の高い言い回しであったり、キャッチーなものが多かったのではないかと個人的に思う。つまるところ、「エンターテインメント性」という言葉で言い換えが効く。

RTA界隈に「人が増えた」ことはつまり、「エンターテインメント性が求められるようになった」ことだということなのではないか。それはキャッチーなイベントであったり、茶番であったり、表現の仕方は様々であるが、「人に注目してもらう」ためには走者として別のエクスパティーズが求められるようになったと言っていい。単純に速く走ればいいという世界は、一部の世界トップクラスの走りにしか通用しなくなったように思える。

「RTAなんだから速くクリアすることだけに重きを置けばいいじゃないか」という層は当然ながら存在する。そもそもそういう世界だったのだから。そういった層にとっては現在のエンターテインメント性ばかりが求められ、そういった企画ばかり催されている現在の状況はとんでもなく目障りに映っていることだろう。一方で、時代の流れはそういったエンターテインメント性を求める人の数を確実に増やしていっている。

どちらが正しいのか論ずることは詮無い話である。どっちも言い分があって、どっちも正しいのだから。じゃあ多い方に流れるべきなのかといえばそれも違うと思う。結局のところ、無責任ながら「自分がやりたいことをやる」しかないように思う。記録を残したいのか、多くの人に見てもらいたいのか、目的が違えば行動も違ってくるだろう。

ただし、「エンターテインメント性」を追求することに特化していく現状には警鐘を鳴らしておきたい。先述した「いろいろな人が増えた」状況ならば、「いろいろなエンターテインメント性」が出てくることは間違いない。残念ながら、広く受け入れられないものも出てくるだろう。一番危険なのは、受け入れられないものだけで溢れかえってしまうことである。そうなってしまえばもうこの界隈にはほとんど何も残らなくなってしまう。それを避けるためには、受け入れられないものは受け入れない、そういった「選球眼」を持ってみるのが大事なのではないかと思う。いろいろな人がいろいろな企画・イベントをする中で、「人(=運営)」でイベントを見る時代が近づいてきているように感じるが、中身を見ず外枠だけを見る、それは崩壊の第一歩に繋がってしまうのではないか。イベントを興す側は受け入れられるようなイベントをやるように、決して手を抜かず責任感を持つこと。見る側はこの人がやるから安心、とかこの人がやるものはすべて面白い、といった色眼鏡をつけず、1つ1つを見てみて、自分はこれを楽しめるのか?と改めて考える一助にこの散文がなればと思う。

乱暴な言い方をすれば、「つまんねーもんはつまんねーと言われて淘汰されていく時代になってほしいなぁ」という感じ。

スマブラDXリレーの運営を終え、RTA WEEKの運営に声をかけてもらい数日が経った今、改めてイベントや企画についての考え方や、自分がどのように今後この世界で生きていくか、少しだけ考えてみた所存。

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髪が乾いたっぽいので今回はこの辺で。Eスポーツの話とか、RTA走者側の話とか、ネタはいくつかあるのでまた髪が濡れたら書くかもしれません。

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