灰色
世界が灰色に見える。色があるように見えても、私の目にはどうもやはり色を失ったモノクロの世界にしか見えなくて。
これがいつからなのかは覚えていない。心境の変化なのか、はたまた仕事環境の影響なのか。それすらも分からない。いや、心境の変化というのは嘘では無いかもしれない。
ここ最近の私を振り返ってみる。
二十数年間生きてきた私の思考は、あまりにも後ろ向きだった。否定的、消極的、ネガティブ。言い換えればそのようなものだ。自分に自信が無く、己を信用できない。「これは私ではない」と自身を否定し続け、「何も出来ない哀れな自分」というレッテルを貼っては暗い水底に沈んでいた。自分を肯定的に見てくれる光に縋り付いて、光を見失うとまた暗闇に逃げ込んで、「今の自分」を否定し続けて。
今覚えば、随分と悲観的に生きてきたと思う。何故ここまで悲観的になれるのかは正直なところ分からない。私も私自身をまだ理解しきれていないのだ。複雑怪奇な思考にいつも頭を抱えている。これも自己が安定していないせいだろう。いつだって自分の意思は揺らぎの中で息をしていた。他者に合わせることで、他者も自身も傷つかないようにする。そんな考えの元生きていたのだ。当然の如く、生きにくいと感じたことは多々ある。
では、今の自分はどうだろうか。今の自分は、後ろ向きに考えて自己の評価を下げ続ける行為は、時間の無駄だと考えている。己を一番に理解しているのは他でもない、自分自身だ。それは同時に、己を信じてあげられるのも自分自身だということになる。誰もが自分を裏切り、自分が世界の中で孤立してしまっても、自分だけは自分の味方として生きるのだ。ならば、唯一無二の存在である自分を自分が信じてあげられなくて何になると言うのだろうか。だから私は自己を愛し始めた。世界に唯一無二の己という存在、誰にも模倣できない唯一の個の存在。そう認識した途端、私はたしかに私自身を愛するようになっていた。こんなにも尊い命を何故蔑まなければならないのか。この瞬間、私は「これが私だ」と自己を認められるようになったのだ。
話を戻そう。
こんなにも自身を愛しているのにも関わらず、やはり世界はモノクロなのだ。色があるのは自分だけ、周りは全て灰色に包まれている。
これに関して、一つの仮説が立てられる。自分自身を愛することはできても「他者を深く愛することができていない」から、というものだ。この考えについてまず反論したい。私は自分が愛する他者に尽くすことが好きだ。他者に尽くし、その人が喜んでくれる姿を見ることが好きだと言った方が正しいだろう。それも全て、私のエゴに近い。相手に尽くすことで、自分は役に立つ存在だと肯定的に評価できると思っていたからだ。もちろんそれだけではない。自身が尽くすことによって相手の幸せの手助けをできることが何より嬉しいからだという想いもある。いずれにせよ、全ては私のエゴだ。
他者を深く愛する、とはどういうことなのだろう。私は自身の深みに誰も立ち寄ってほしくないと思っているが、そのことが原因だろうか。恐らくこの答えは、生きている内に見つかるのかどうかと聞かれると怪しい。それでも私は、他者を心の底から愛してみたいと思っている。私に本気で他者に燃えるような好意を寄せた経験は無い。だからこそ、私は味わってみたいのだ。人の思考すらも変えてしまう愛という恐ろしい感情を抱いてみたい。そんな相手が現れるのかは、今は考えないでおこう。
私の世界は未だに灰色だ。それでも私は、自分を好いてくれる人を愛している。
いつかこの世界に色がついた時。真っ先に祝福してくれるのは誰なのだろうか。
灰色の輪郭に触れてみる。
冷たいけれど、どこか温もりのある柔い感触が、指を伝った。
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