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続きはぜひ、君の目で確かめてみてくれ!

おはようございmzす!前澤社長のコードネームみたいになってしまったところからスタートです。股間がかゆすぎてなかなか取りかかれなかったのですが、PCで音楽を流しながら、ボリボリかいてしまわないようにこう、握って温めてみたりさするように半分かいていたのですが一向に治らず、こりゃかゆみ止めクリームの出番かと、妹だか父が皮膚科でもらってきた、顔以外とだけテープライターで印字された緑色の蓋の薬はどこにいったかなと探しながら、黄金パターンの一角として定着している水色のトランクスに履き替えようかなと探しつつ。まてよこれオナニーも一つの選択肢なんじゃないか?とノリノリになりかけたところでピンとくるものがあり、思考をフラットに戻すとそこまでかゆくないかもしれない。いつもものを書いているデスクの前に垂直に貼り付けてある窓から涼しそうな色をした朝の日差しが差し込んでいて、白いレースのカーテンに濾過された光が透明で、あれを見てしまうともういくらでも書けそうな気がしてきたから、結局30秒ほどだけうろちょろして同じところに戻ってきた。またかゆくなってきたのと、関係あるかは知らないがもともと今日は書き始めからガッツリ分量を出していくんじゃないだろうなという予測を脇目に書いているので、いったんうろちょろしてきます。

9:45、執筆再開。2時間半寝たらかゆみがおさまった。昨日は千葉ロッテマリーンズの劇的粘り勝ちに熱をもらってしまって寝るのが遅くなってしまったが、起きたのは昨日と同じ5時20分ごろだったので後で眠くなりそうだな、てか今眠いしなと思いながら体を起こした。坂口さんのドキュメンタリーで、眠いは眠いけど、やったほうがいいことがあるからやってるという言葉を聞いて、ああやっぱり眠いんだと安心しつつ、朝クソ眠くたっていいんだ、眠いを動作で上書きしていくような体の動かし方もありなんだ、と許可を求めいていたわけでもないけれど、なんとなくお墨付きをもらったんだからこれは安心してできるなと今日に至るまでやっている。その代わり眠たくなったら眠れるように環境を整備しておく、いますぐに今日みたいなバイトのない日で毎日を埋め尽くすことはできないが、行きの電車は各駅停車に乗る、昼休憩は風通しのいい外に出る、友人や彼女と遊ぶことの大切さは日を増すごとにその明度が高まっているのを感じるが、それでも完全別個として、くそ暇に見えようがなにもない日を作る。

PCで音楽を流すことの利点は、ちょっとめんどくさいけどとりあえずパカっと開くだけ開くかとやったときに音楽も流れ始めて、そのままぐわっと書くモードに移行させてくれることだ。今思った。もう面倒臭いなんて感覚は近日1番の日の光にたれされて、あっけなく、気づいた頃には蒸発してしまう木の葉の朝露のように見えなくなってしまった。それが嬉しいんだかなんとか食らいついているんだが訳もわからないまま、もうういいだろうというところまでまた書いてゆくのだ。爪が伸びてきた。頭をかくとき頭皮に少し引っかかって痛い、そろそろ切ろうと思って、すっかり忘れてというのが4回くらいあった。今日は切れそうな気がする。今12:20の1300字ちょっとだから、なんとなくだがこのまま最後まで書き切るということはなさそうで、あるいは書き切ることができたとしても、次に何をするかを手を動かしながら考える時間が欲しい。多くの場合僕はそこに家事を当てはめる。乾燥しきったタオルを畳んで引き出しにしまったり、昼食で使ったり朝家族が使ったものの洗うところまで至らなかった食器をまとめて片付けたり、もっとも手軽で効果的だと感じているもので言うとティファールの電気ケトルに水を入れてスイッチを押す。コーヒーを淹れるのにも使えるし、緑茶やほうじ茶にしてもいいし、食器洗いにだって熱湯があれば助かる。料理もそう。とりあえず味噌汁用の器3杯半水を小さめの鍋に入れて、蓋をしてから強火にかける。これをすると急にカウントダウンが始まるから、僕はその間にいかに多くのことをやれるかが価値基準となる世界に放り込まれる、真円堂くさいとか思っている暇もなく、やっていると楽しくなってくる時もあるし、最後までただ手を動かしているだけのときもある。でもやらなきゃいけないことは等しく終わる。うまかろうが、もうちょっと味噌多く入れてもよかったな、だろうが食器を棚に戻すときに音を立てすぎてしまったな、まあ1日活動したあとだから多少体が軋んでいるのだろう、だろうが、思うところは無限にありつつもやるべきことは終わる。不思議なようでいて、天井の隅っこ、キッチンで言えば換気扇の位置、昔ながらの定食屋で言えばテレビの位置から誰かがカメラを回していれば、手動いてたら終わるのなんて当たり前やな、そらそやなというだけの映像が撮れることと思うし、もちろん僕もよっぽど疲弊していなければそれを見たいとは思わないだろう。でも心の生じ方、形の変わり方、対するわたしの感じ方の不安定さに日々驚いている人ならば、その不思議さがわかる。目の前で起きていること、自分がそうしようとして、実際にそうなったことを見ているだけ、それだけなのに不思議だとしか思えない、本当にこうなるんだ、思った通りに景色が変わった、その喜びなのか、少なくとも悲しみや怒りではないことは確かだからまじまじと観察できるその心。あれはいったいなんなんだろう、とは言っているが、長々書いているとどうしようもなく今喋っていることに飽きてしまって、だからもうやめたい。でも体はもうちょっと書いてもいいんじゃない?まあ他のことにあえて写って思い悩むこともないんじゃない?いやこれは誤訳だな、思い悩むのはもうとことんやってもらって構わないけども、それをやりたいかどうかで決めてくれ。と言っているらしい。なになに?本来やりたくてやってるわけじゃないようなことでも、あ、いまやりたいな、やっときたいなと思えるタイミングがあるから。その1日のうちに毎回来てくれるとは限らないから厄介なんだけどね。それを見逃しさえしなければ、毎日快適とまでは言い切れないけど、なんとかやっていけるってことくらいは保証できるよ。今あんたがやりたいことをやるためには何が必要なんだい、一度お金抜きで考えてごらん。お金をガッと使って部屋借りて、ってそれ実は部屋借りなくたってできたりするんだぜ。お金だけは絶対量が決まってるからさ、人間が取り扱うものの中で唯一。ま、すでに自分だけの経済圏を確立できていれば話は別なんだけど、そう言う人だってまずお金から離れる、絶対量を下げる、すなわち生活水準を下げることから始めている訳だからさ、お金浪費ゲームなんて目の前の人を一瞬笑かすことしかできないようなゲームからはさっさとあがっちゃえばいいんじゃない?俺はここはいいや、しちゃいけないルールのゲームなんてないんだぜ。それが人生とかなんとか、もっとも強烈でシビアなリアリティをもっている、とされているものだとしてもね。お前にとってのリアルとはなんなんだ?手を触れられることなのか?握手ができることなのか?ふたつついてるその目で見えるものなのか?それだけ?というより、それなのか?

13:43、再開。こっから最後まで一気に書き上げる。一つ前の段落を書き上げる前の休憩でティアキンの本編をついにやり切った。ここに書くからにはネタバレもヘチマもない訳なのでなんでも書いちゃうが、まず最後にゼルダの手を取る局面のセッティングだよね。あれこそもう、美味しいとこどりというか。ここまで準備してもらって、ここの操作俺がやっていいんですか?みたいな。時を超え、永遠の命を得ると共に莫大な光、または闇の力を得るために、賢者の力を倍化させる秘石を飲み込むことで巨大な竜になる、というゼルダの決意と追い詰められたガノンドロフのヤケクソが最後の最後にぶつかり合うのが最終決戦、ステージは地底最深部から地上をすっ飛ばして、やはり空。物語に厚みを持たせる存在として地底の存在は大きく、その探索にこそ己の好奇心の核を見たものも多いのではないかと思うが、今作のメインステージはやはり空だ。ここで最後に、おいおいこんなにでけえのかよ間近で見ると、と臆する表情も見せずカイドウに啖呵を切ったモンキー・D・ルフィのシンプルな強さを思い出すことができたが、最終的にあの場にモモの助が助け舟を出したように、こちらの決戦も独りではない。サイズでは明らかに劣るが、竜になった経緯が違う。覚悟の深度が違ううちの姫と共に助けてもらいながら、それこそまさにアウェーである天空で戦っているにも関わらず、地上に落ちる心配を全くしなくていいくらい高速で拾いにきて、再びガノンドロフの成った黒龍のさらに上まで連れて行ってくれる。これもまた丁寧すぎるセッティング、お膳立てと言ったほうがいいかもしれない。僕はただ安全なところからタイミングをうかがい、黒竜の背中にいくつか点在している禍々しいがもろそうな核を狙って降下していくだけだ。物語を進める過程で体力を多めに増やしていたプレイヤーであれば、瘴気に身を削りながらもダッシュで各ポイントに向かうことができる。しかし一つ壊すごとにポーンと背中から跳ね上げられるから、その度ゼルダに拾ってもらう。回復アイテムをふんだんに使えば、あそこから独力で黒龍だけに食らいついて倒し切ることもできるのかもしれないが、なんせあの白く美しい、雲にも石にも水にも遮られない陽光にその身を照らす竜に、うまいことひっかかるといってほうがいいくらいのスピードで上空まで引き上げられるのが最高に気持ちいいのだ。それを繰り返していたら最後に黒い竜の頭にここを突き刺せと言わんばかりの弱点が顔を出して、トドメ:Yという表示どおりに、しかし自分のタイミングでボタンを押せば、あの巨大な竜はたまらず光の柱となって消えていく。あとはゼルダはゼルダを救い出すだけ。ハイラル初代国王であり光の賢者・ラウルと、王妃であり時の賢者・ソニアの力を借りてリンクはその手で奇跡を起こし、ゼルダはついに人の姿に戻る、ただここは天空、このまま落ちたら生身の人間であるゼルダもリンクもただでは済まない。だからその手を取りにいく。この物語の幕開けを示すように、プレイヤーに初めに与えられるアクションが、ここでも求められる。逆再生の入り混じった歪で不気味なテーマはここで収束する。メインテーマが堰を切ったように二人を、そして僕たちを包む。今度こそあの手を掴まなくてはならない。でもこれが最後のダイビングだと思うと、周りの景色もちょっと見ていきたいとは思う。でも二人ともびっくりするくらいのスピードで落ちていっている。リンクが急降下して追いつかなければさっさと地上に達してしまいそうなほど。だから意を決して、この戦いにおいて全てを出し尽くしたゼルダを助けることだけに集中する。集中しているから、その手を掴みにいくことしか頭にないから、ゼルダとの距離が縮まっていくと共に音楽が厚みを増していくというあまりに粋な仕組みにも気づかないまま。最後のコマンド入力に辿り着く。手を伸ばす:A。時間の流れがゆるやかになっている。あるいはいまもそこらにとどまっっているのかもしれない、その欠片だけは変わらずそこにあるのかもしれない。物語の始まるきっかけともなった、ゼルダとの別れはなかったことにはできないし、あれがなくては魔王に争う術は生まれなかった。だからといってこのままでいいわけがない、いちど力が入って掴み損ねて、2度目で掴む、体をぐっと引き寄せて、真下の湖に飛び込む。二人で降りるならこれしかない。初めはパラセールも持っていなかったから、水辺に飛び込むしか着地の術がなかったのを思い出した。ゼルダが目を覚ます直前、リンクは湖から上がって草むらに彼女を横たえてやったが、そこに置く?と声に出してしまった。エンドロールが始まったらああ、というしかできることがなくなったし、あ、やっぱリトからやることを想定してるんだ、え、次ゴロン!?とかはいった記憶があるけど。そのあとあらためてムービーが流れてきた時は嬉しかった。劇場版コナンのさいごにあるやつだ、が不意に口をついた。やはりゼルダの手をとるところに、僕の意識は集中してしまっている。もう一度あのアクションをすぐにやりたいが、そこまでの戦闘が肉厚すぎる。気が向いたらしよう。でもYouTubeで演出を見るだけでなく、自分の手でやろう。そうした方が楽しいよ、と青沼さんが言っている気がした。エンディング周辺の諸々は、月並みであるようであまり見ることもなくなった文言を借りれば、ぜひ君の目で確かめてみてくれ!

the last catch

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