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腑におちること/小説⑩僕のコーヒーのいれ方

おはようございます。書くか。いくつか頭に書き出しを思い浮かべながら窓の外を眺めて、それじゃダメだとは言わないがそういう気分でも無くなってしまうので結局その場の流れに身を任せる。しかし一応は、事前にあれこれこうでもないあーでもないしたことの欠片を含んだものになる。その時楽なように書いたり書かなかったりすることは、書き出すための準備なのだ。それをそのまんま使うことはないというだけで、というのはなにも続けづらいように書く必要はないということでもあるし、それじゃああんた、あんたが面白くないんじゃないのということでもある。

近頃は序文のように短い文章が頭に置かれることが多いような気がする。この前ラジオについて調べる機運がちょこっと高まったからだろうか。機運というのはあまり使わない言葉だが、高まってきている、とかそれをいう時点ではまだこう、気になり始めたときと変わらぬ熱量をもってそれをやりたいとおもっている時に使うんじゃないかと思うが、僕は高まった、という使い方をしてみる。今はそうでもないからだ。先週の日曜日、大学時代の友人ふたりとTwitterスペースを使ってラジオをとってみた。ふたりはその前からひとりでに交換ノート上でラジオ番組を作っていたのだが、番組の構造というか流れ、つくる段取りは多くをYouTubeやTwitterで活動しているもののけという人の動画、というか背景は静止画の音声、深夜番組が好きすぎて放送委員になったやつ、ってタイトルだったかな、コメントにもあったが1本目の喋り出しからそれっぽくて感銘を受けた。タケダ作の初回ではいくつかつなぎのCMも挟まれていてうお、番組だと驚いたものだが、この動画を参考にしたらしい。タニは面白いと言っていただけでもともと深夜ラジオがかなり好きな男だし特に参考にしたというわけでもないのかと思ったが、そういえばBGMをつけないで仕上げるというのはここからいただいたと言っていたな。タニ作の初回ではのっけから僕はそっちかていうとAM派なんでね、と背景音楽を流さない理由を示していたのを覚えていて、予感に違わずそこそんなに広げる?という変な博識ぶりを披露していて面白い。しかもすでに熟練パーソナリティの振る舞いだ。昨日更新した第4回かな、タニのものでいうと(二人は同じYouTubeチャンネルに限定公開するという形をとる)、もしかしたらお気づきの方もいらっしゃるんじゃないかと思うんですけど、風邪引きました。という具合でちょっぴりの鼻声をもうこれはさすがに気づくよね、というスタンスで話を進めていて、もっとやれと思った。そのくらい視聴者なんてついてこいでいいんだな。創作と経済、というかお金の流れは別個のものとして考えるレイヤーも持っておいたほうがいいのだきっと。僕が右も左もわからず、とりあえず一人で収入基盤を作るならこれかとはじめた期限付きのYouTube、そこへの向き合い方においてはここが足りなかったのもあるだろう。もっともあまり僕がその背中を追いたいやり方でYouTubeをやっている人はいなくて、ガッツリここの出来で飯が食えるか決まる人、他でたらふく稼いでいるから、あるいはそれが元々人気商売だからまんま自身を共有の商材として、元手に使う人、ブイログ系の人たちはいったんおいといて、マジでカツカツです、私こんなにダメなんです、わかるでしょ?という人たち。書きながらじゃあ何ならいいねんと整理していたのだが、まあ案外いるのかもしれないなと思った。なんだろうな、まあたらふく財布に余裕があるわけではないけど食ってはいけてるからそっちはそれでいいとして、1ミリも金にならないような面白さをもとめて作る人。となると話がYouTubeというものを中心には回らなくなっちゃうから、いつも考えようとしてぼやけるのか。まあ、気が向いたらYouTubeという形でもやってみようということで、やっぱいまのところイメージできるのは背景無音の一発ギャグなんだが、いきなりいわゆるすべり芸(というつもりはないのだが)というのはちょっと、彼女からの反感を買いそうだな。アイドル商売をやるより断然マシだろうから(こちらはやろうとしてもできないが)、このまま企画を深めていっていいはずだ。ギャグというかな、ワンシーン、ワンカットがあるんだよな、頭の中に、ただこれを多くの人に伝えようとすると、疎かになっちゃう部分が多すぎる。いや違う逆だ、ちゃんとしなきゃいけないところが多すぎる。もっとおろそかにしていいんだ、別に考察なんかしてほしくはないが、含みを持たせるしかそのまんまのリズムで仕上げる方法もないのだから。考察させたい人の作るものがつまらないだけか。いいとわかってて言葉を尽くす面白いようで面白くなさと似ている。おもしろいか、おもしろくないか、案外つまらないかもしれないこととか、いやでもやっぱり面白いんじゃないか?ということを話すのが楽しいのだ。美味しいもそうだが、美味しいは僕も美味しいのは前提で、という話し方をどうしてもしてしまう。その意味ではこちらの方が議論を深めるのは難しそうなのだが、こと面白いの話になると、急にこれは逆につまらん!と極端な立場でモノを言いたがる人が増えるから、結構難しい。僕も呪術廻戦なんかについてしゃべるときは(ちょっと前までかいせんの変換に手こずっていたものだが今や当然一発である)、いちど引っ掛かりを作るために、いや逆に鼻につくけどなあの漫画は、という入り方をしてしまう。そしてそれをそのまま捉えられてしまう。違うんだ、いや違わないけどそうとも思ってはいるけど、これ序文だから、ひっかけたいだけであまり意味はないとも言えるから、みたいなことを言っているうちに口頭の会話なんてものは2度3度話題を変えている。もう慣れたが、そういうもんだとエッジを効かせた一言を懐においておくキャラクターに一度れるよう最近は心がけてすらいるが、まあ前もって準備したものなんて言えようが言えまいが不完全燃焼に終わるというのはあるあるである。俺あるある。しかしそこではないどこかで役に立つ。場合によってはウケたりもする。ただ僕の考えた面白い言葉というのは、ウケなかったら腐ってしまうわけではもちろんないし、ウケたら成仏するわけでも意外なことにないというのがわかってきた。ふにおちりゃいいってモンじゃないのよ。と、山下澄人は言っていたが、だんだんその輪郭が見えてきた気がしないでもない。なんでも腑に落ちたらつまらない、という言い方をしていたか。

おつかれさんです、足冷たいのでもう一枚靴下履きます。履きました。今度はトイレに行きたくなったのでいってきます。いってきまうs、と出てきて指折りの嫌いな言葉であるいってきまうすを思い浮かべてしまいました。あんなに面白くないもんもないからね。でもえヤバ、をさせてもらえる友達が、そのノリで言うと高校一年の時のコミュニティがダントツの速さと精度を誇っているのだが、なかでもノグチは生まれながらの陽キャとアクティブさをもちつつ、もちつつというかだからこそでもあるのだが、お笑いの研究も欠かさない。研究がどうというよりは、ちょっとしたリアクションの所作なんかからお、取り入れてんねえという感じがする。ちょっと前で言うと、するかあ!とかね。関西の芸人は当たり前に使うんだけどなかなかこっちの人のイントネーション的に会話に取り入れづらい。でもあれでしか突っ込めない、最大値が出てこない場面もある。じゃにのじゃないな、かといってよにのでもない、ドッキリグランプリかなんかで風磨がするかあ!してて感動した。自然な立ち姿だった。そのあとノグチがやっていた。日常の会話の中だとどうしても個人抜きにパッとカメラが切り替わって、みたいにはならないしテロップで強調もできないので扱いが難しいのだが、あれもよかった。というか嬉しかった。トイレは行かないでも良くなった。

再開、今日は余裕で9時半に間に合いそうだと思ったが、9:44。昨日から、以前作った10年後のスケジュールを意識して過ごしてみている。ちょっと起床時間が遅れがちなのは、たまたま夜お酒を飲む機会が連続したからだ。何時からにせよ書く時間は9時半までに設定されていて、そこから10時半までは休憩としている。休憩中に文章を書いてもなんの問題もないと言うことで、今は休憩中だということだけ意識して書いてます。まいてまうs、と打ってしまった。美味い。自分でハンドドリップしたコーヒーが。一番ではない、お店でいれた方がそりゃ美味いが、コーヒー豆およびそれをひいた粉というのは新しければ新しいほど炭酸ガス、二酸化酸素に粒が覆われており、一度お湯で蒸らしてそちらを飛ばしてあげないと味がうまく抽出されない。ドリップバッグのように短時間でいれられるように作られたモノなら話は別だが、鮮度命!半分直売!みたいな感じで手に入れたお豆に関しては、はじめの蒸らしだけでなくそのごガスを抜きながら、つまりはお湯を注いだ時の粉の膨らみ方を見て、まずは少量のお湯で半分蒸らしながら、しかし少量は抽出していく形でドリップをすすめていくとよい。たぶんね。僕は勝手にそう捉えていろいろ入れ方を工夫してみているが、粉にするタイミングが最重要とお店では聞いたが、やっぱり入れ方と、当然だが飲みたい量と濃さ、まろやかに仕上げたいのか苦くてもいいのか、朝だからアメリカン気味にさらっと飲みたいのか、に合わせて粉の量を調整するのがまず第一で、そのうえで豊かな香りとしばらく口に含んでいたくなるような軽やかだが重厚な味わいを楽しみたいのであれば、ドリップの仕方がやはり重要である。まあ、要はまずちょっと思ったより多くお湯を含ませて豆を膨らませてあげて、少しでも膨らむようなら思ってるよりちょっと長め、40秒とか50秒くらいただ見守ってあげて、そろそろ暇そうにしてるな、いや暇なのは俺か、と気づいた頃にほんの少しずつお湯を注いであげる。この過程の意味が僕はよくわからなかったのだが、蒸らしついでに手元が寂しいからちょっとずつ注いじゃおうかな、ってことなんじゃないかと捉えている。だって空気が抜けたら抽出できる味の送料は同じなんじゃないの?初めは濃く出ようがなんだろうが、とも思うわけだ。でもあれらしい、あまり手を動かしすぎるのは豆によっては逆効果らしい。味が出過ぎるとかなんとか、不要な苦味もついでに出てきてしまうらしい。この辺も正直、そう教わってるからダメに思えるだけでぼくはもともと苦いの大丈夫なので、多少苦く仕上がる分にはうーん、コーヒーらしくていいね!とか思っちゃったりするが、言ってることはわかるような気もする。和食の考え方に近いんだろうか、別に栄養を考えたらここも使った方がむしろいいんだけど、とかだったらコーヒー飲むなよ、みたいなガサツさを一度切り離して、静かな旨みから喜びを見出すというか。まず澄んでいることが重要で、瞑想だとか前のイメージ、それでいうと僕が書いているものなんかうるさすぎる気がしないでもないが、まあどうなんだろう。日によっては、タイミングによっては和食のような文章を書きたくなるし、土井先生はもちろんそちらにも知識と経験が豊富だが、最近は、というか僕みたいな和食界隈から見てその他大勢からすると、彼は家庭料理はこれでええんです。の人ですから、もうざっくばらんに、おにぎりなんかも形は不揃いでええんですと、土井先生の情熱大陸、というかあれが地上波で流れていたのかYouTube限定なのかわかりませんが、何本か上がっているやつ全部おすすめです。味噌汁シリーズかな、僕はとりわけ。味噌汁だけにね。ごはんでもいいんだけど。ピーマンってヘタまで食えるんだぜ、っていうかこれフードロスがどうとかではなくて、美味い。ピーマンに限ってはあそこにいい苦味とうまみがつまっている感じがする。多分どっかに化学の何か転がってんじゃない?知らんけど。ナスは葉っぱすぎて食べたことないけど、大根は食べた。葉はもちろん食べるけど、葉と身のあいだ。あそこはね、ちょっと大根が痛んでたのもあるけどあんまり美味しくなかった。でも全然食べるのに支障はない。栄養も多分詰まってるとかなんだろう、ほんとにこれは知らん。でももうそうなんでしょう。

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