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批評①ハガレンの不穏と小気味良さ/早弁

おはようございます!コーヒーを飲んでいる。起きた直後に、本屋でコーヒー一杯を飲み終わるまで本を読むというツイートの一節を見て、コーヒー飲んでる時にそんなんできる?と思った。アイスコーヒーなのかな。僕は本を読み進めるのが爆発的に遅いのも相まって(1時間で10ページ読めれば絶好調、漫画の単行本も一冊読み切るのに1時間〜1時間半はかかる、こちらは好きでやっている部分が大きい)、コーヒーが冷め切る前に、しかもあれカサが減っていくたびに冷めやすくなるから、あったかいうちに飲みたい!も同時に叶えようとすれば長くとも10分ちょっと、15分には確実に届かないのではないか。やっぱアイスコーヒーか。そうだよな?まあでもあれか、コーヒー飲んでる時だったら読み進められるかはさして重要じゃないか。ふわっと口の中に広がる、お店なんか行くとフレーバーと呼ばれたりするその風味、舌の上を漂う香りのように、テクストと、イメージと、記憶と僕と他人の境目が曖昧になるようなあの感覚を、というか空間を、ひいては時間そのものを頭の周りで漂わせとけばそれで幸せなんだということなのかもな。

それにしても鋼の錬金術師の展開構成というか、カオスから新章へと展開していくリズムの小気味良さと言ったらない。もっともあれは僕の初めて読んだ漫画であり、物心ついた頃からすげえ漫画だと知っていて、いやどうだったかな、本屋に当たり前のようにでかでかと平積みされていて、あの時点で2度アニメ化していることの異質さは僕の目には留まっていなかったはず。強いて言えばお母さんがこの漫画をめちゃくちゃ面白がって読んでいて、だからこれが欲しいというと少しの引っ掛かりもなく、ちょっとずつ古本屋で買ってくれた。その後バランスブレイカーのじいちゃんとばあちゃんが16巻から24巻を新品で一気に買ってくれた。だからというのもあるかもしれないが、16巻は僕にとって、そして舞台もガラッと北へ移るのでおそらく愛読者の共通認識としても、物語の大きな転換点として機能している。それから6巻、7巻。いや7巻、8巻か。さすがに記憶が曖昧だな。グリードのギルドで大総統が敵か味方か分からなくなったり、アルフォンスがむしろ絶対的に敵視していた陣営の中にこそ人間味を感じ取ったり、しかし結局は圧倒的な力の前に全ては沈黙を迎える。エルリック兄弟はまたしても己の力量に失望する。殺されていくキメラたちは、彼らにニーナとアレキサンダーを思い出させたかもしれない。で、シンの民との邂逅。ここで一気に世界が広がる、のちに、外様からみたこの国の違和感を提示されることとなる。これを8巻でやるのが僕はたまらなくスタイリッシュだと思う。このへんの巻なんかまだ我々の、主人公陣営の内輪ノリはこうですよ、倒さなければいけないのはこいつらですよ、をちょっとずつ広げていればいいくらいに思えるが。スポーツ漫画で言ったら、例えば黒子のバスケとかだともう青峰には負けてるんだろうか、ハイキューはたしかインターハイ予選に敗れるのが10巻、助走をつける日向を正面から小さな獣のように捉えた表紙だった気がするが。まずは読者を惹きつけるために、物語の観測開始時点から披露していた主人公陣営の技が通用しない、世界はもっと広かった、をやるのは少年漫画の定番なのだろうと思う、発祥はどこなんだろう。というかハガレンを語ろうとするにはあまりにうろ覚えだな、直前の、主人公の技が通用しない、世界は広かったという展開で言うと当然傷の男との戦闘も当てはまるだろうが、それよりはもっと大きく、ずっとこれさえ手に入れば元の体に戻れると信じきっていた賢者の石の正体を知り、二人の旅は振り出しに戻ったところがそうだとみるのがいい気がする。であれば新しい風を取り入れなくてはならないというところでリン・ヤオ、ランファン、フー、そしてメイ・チャン登場という。7〜8巻、14〜16巻、23〜25巻を僕はこの物語の三大転換点として自然にとらえることができるが、なんか目に見えて舞台が大きく変わっただけにも見えるし(シンの風、ブリックズ、約束の日から真理の扉へ)、二項対立の脱構築がそれぞれ行われていて、それが僕の無意識のエキセントリックを生み出していたとみることもできそうだ(人造人間・合成獣vs人間、イシュヴァール人とそれ以外、最後のは物語でいう真理の性質上いろいろ言えそう→賢者の石を使って元の体に戻るか戻らないか/神か人間か/あらためて人造人間vs人間ではないということ)。これ、めちゃくちゃ面白いな。一旦自分で読み返したくなってきた。こういう文章の書き方をすると、読む時拍子抜けするくらい量が少ないんだよね。あんなに普段使わない記憶の鍵穴をかっぽじってはここじゃないんかい、いやここなのか?を繰り返してヘトヘトになったのに、みたいなね。とりあえず休憩。ちょうど2000字。

いや参った。今回のタイトルは批評①とかにしようとしたんだけどさ、もうわかってはいたという以上にガバガバだったっぽい。8巻でシンの風が入ってくるのはそうだったんだけど、賢者の石の正体、3巻でわかるのねもう。図書館でうー、なんでこんなに錬丹術に関する文献がすくねーんだよ、とエドワードが嘆いていたのはそれとはまた別だったか。これは16巻だ。こちらはのちに、アメストリスで使われる錬金術は地殻変動のエネルギーを純粋に用いたものではなく、人造人間によって地中に張り巡らせた賢者の石によってコントロールされたものだったということがわかり、その管理を強めるためにそれ以外の術、お父様の喉元にたどり着く可能性のある、たとえばシンの錬丹術のようなものについての資料は徹底的に処分されていたということを示唆するシーンだ。物語の中盤に入ってから図書館による暇なんてあったっけ?と見つけるのに苦労したが、錬丹術がお父様の錬金術無効をも意に介さないというのがわかるのはグラトニーの腹の中を経て、敵の本丸に乗り込んだとき、つまり14巻にてわかることだからそれよりあと、そういえば僕は16巻をブリックズ編の象徴としてみ過ぎて、始まりの巻なのだから移動前のパートが当然あるじゃないかというのをすっかり忘れていた。(ところで僕は錬金術無効がどのように行われていたのかずっとよくわかっていない、ただ錬金術というのはデリケートで、利用したいエネルギーやらこれをどう作りたい形に流し込むかというところの理解に基づいてしかものを再構築はおろか分解すらできないのだろうから、地殻変動のエネルギーを使う頭でエドワードたちはいるのだが賢者の石をフィルターに使われて、阻害の程度を自在にコントロールされていたと見てもいいし、もともとこの国に伝わる錬金術というものが地殻変動に基づいていると字面では書かれているが、これはすべて賢者の石のエネルギーの活用方法に過ぎなかったという見方もある、ではものすごい威力がつねに発揮されなくてはおかしいのではないかとも思えるが、どのみち賢者の石で地殻変動エネルギーをシャットアウトするという前者の理屈にしてもその性質はすべてお父様の手でコントロールできるものであると考えるのが自然であり、であればどちらの解釈も有用ではありそうだが、なんとなくさすがに前者が妥当な気がする)
いくらなんでも改行する。話も思う存分それた。それはもう、原稿の文量ノルマの5分の1くらいかけて。まあでも読み返してみると、賢者の石の正体についてエルリック兄弟が知ったタイミングやあ、きっかけがティムマルコーとの偶然の出会いであることさえ忘れていた、みたいな記憶のチグハグさはさして僕が「批評」と名づけようとしていた部分には影響を及ぼしていないように見えた。というかたまたまそういうふうには書いていなかったので、訂正する手間が省けてラッキーだった。いやほんと、こんなに読み返した漫画もそうないし、27巻しかないとはいえしばらくの間はウン巻、と言われるだけで表紙に写っているキャラクター、構図をすべて即答できたものだが、今思い返して興味深いのはそのときでさえも僕はウン巻のざっくりとしたあらすじは言えてもこいつがこうすることでこっちに物語が動いて、間に挟まった何気ない日常シーンがスパイスとしてのちのち我々の琴線に触れてきて、みたいなことは言えなかったということ。いや言えなくてもいいのだろうが、俺が俺をこのくらいのハガレンオタクであると認識するところのバロメーターでいうと、そのくらいは言えて欲しいと思ってしまうのである。ハガレンのコアなファンの情報をなぜかまとめてくれている例外的な公式ガイドブックがあったとして、僕のページのプロフィールには嘘をついてでもそういうのができる、ここのシーンの全セリフ暗唱ができるとか、いやそれはちょっと得意分野かもしれないが、さっき僕がこれはできないと書いたようなことを僕は僕にできて欲しいと思っている。でもできない。なんか、不思議な読み方だなと思う。中途半端にディテールに向いてはメタに展開し、ときに僕のいるここがアメストリスだと思えるくらい僕がキャラクターに入り込むというかキャラクターが僕の中に居着いてしまって、荒川弘の描く世界を終始覆っている不穏さをなぜか僕も日々纏いながら、しかし元気に毎日学校に通うような、ほんと金にならないはまり方である。それでいいのだ、これを書くのだ、これこそ、と思い、実際書けるようになった今も当たり前のように金になってないが、幸せである。

漫画でいうと魔々勇々もやっぱりいい。はじめの三話くらいしか読んでいないけど、それで俺はこの漫画好きだから単行本買えばいいや、と安心してジャンプの定期購読をやめたくらいだ。この漫画の表紙に惹かれて一ヶ月間、購読を再開していた。紙媒体はなんとなく。ほな4話読んどるやん。今それ関係ないから!言い方が間違っていたというだけだね。ついでに言うとバイト先のハルキくんは佐々木を駆使してこれを打つらしい。僕は益々、と言ったらそっちのがいいすねと言われたがますますは一発目に漢字が出てこなかったりするので隣の佐々木の方が青く感じた。スマホだとまあ2文字の方がいいだろうな、消す手間が大きい。腹がへった、妹が下でカップ焼きそばを食っている気がする。そんな匂い。昼はこれでよろしくと言わんばかりにペヤングソース焼きそばが台所に二つ重なっていて、二つというのが良かったのだろう、とてもワクワクした。ひとつだとなんかこじんまり、寂しそうに見えて、しょぼさの方に目がいってしまって、ついでにカップ焼きそばがそもそもしょぼいものなんだと思いたくなる。妹は昼から学校にいくということだが、それにしてもまだ10時過ぎである。この時間にカップ焼きそばを食べたことはないし、この時間にカップ焼きそばを食べてやったぜという旨のツイートやらでしか観測したことすらないので、まあわざわざやるほどのことでもない、なんならほんとはやっちゃいけないことであると僕は思っている。そういう運びに今はなっている。でもさっき、もう顔を洗ったりメイクに取り掛かっているのだろうが、たぶん妹はカップ焼きそばを食べていた。10時に、普通に食べていた。彼女の友達のは食ったった、という旨のメッセージを送ったかもしれないが、僕は妹が普通に10時にカップ焼きそばを食べてというふうにしか見えていない。だから僕も11時まで待てなそうになっている。食べてもいいのかもしれない。でもまあ、うーん、どうしよう。昨日カフェで廃棄の焼き菓子をもらってきたので、特にクッキーは賞味期限が昨日までなので午前中に食べたい気持ちもあって、早弁するくらいならもう一杯ディカフェでコーヒーをいれてお菓子を食べようかなと考えていたのだが、いかんせん午前中に間食をして良い思い出があまりないもので、悩んでいる。腹が減った。こういう時は大体おにぎりを食う。妹の弁当を作るついでに作ってくれたあまりの、というか僕用のおにぎりがあればそれだけ先に食べるし、なければ冷凍のご飯だったり白飯のままラップに包んで冷ましてあるものにふりかけをかけたりかけなかったりして食べる。今日はどうするか。妹とてあの時間に「食べたいから」10割でカップ焼きそばを食べたのではなさそうだから、僕が昼と聞いて想定していたより家を出るのが早いのだろう。ざっくり、あと15分もしないうちに家を出ることになるだろうか。うーん書き終えた。腹は減っているし足は冷たいので今日はこのまましばらくここに座っていることはないと思う。米を食べることにする。昼飯を二段編成にする。俺にはカップ焼きそばとラップに包んだ白飯、これが二段弁当に見えている。ほなら同時に食べろ。二段弁当の人って早弁する時どうするんだろう。

今日の書2

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