同じことをずっと書いている

おはようございます!昨日は休載しました。眠いです。眠いときは先に書いとけって知恵が3日前くらいに生まれたような気がするので、微かな記憶をたよりに今書いてます。昨日フェイブルマンズを観ました。スピルバーグ監督の最新作、半自伝のような感じらしいです。面白かった。なにひとつ、ひとかたまりの、一般的に均されたご都合で展開は動いていかなかった。科学、学問至上主義の父、芸術家気質(体質といってもいいかもしれない)で家族のバランスを崩してでも、そうせずにはいられないことが生まれてしまう母、3人の妹、そして唯一母の気質を色濃く受け継ぎ、だからこそ母の些細な辛さの理解できないサミー・フェイブルマンズ。フェイブルマンズって言葉自体に意味があるのかな。自身のものから置き換えた名前をまるっとタイトルにしているんだとしたらなんかすげえ攻めてるなと思うが、ディズニーのタイトルとかいつもそんな感じもするなと思いつつ、人の名前じゃないのか、映画だと。アップ!とかフローズンとかだもんね、ラプンツェルとかどうなんだろ、なんにせよ元々童話のなかでな名前がついていて、ディズニー抜きでも耳に馴染みのある名前だもんなプリンセスたちって。いやフェイブルマンか苗字。ほんで一家でフェイブルマンズか。ほんでフェイブルが寓話、作り話って意味かい。ほんでスピルバーグは東ヨーロッパのユダヤ人が話しているイディッシュ語が語源で、演劇(speil)+ 山(berg)を足したものかい。本名?本名かい。運命走っちゃってるじゃない。強いて言えばスティーブン・アラン・スピルバーグでした。このへんはotokotoっていうフェイブルマンズ 由来で検索かけると一番上にヒットするサイトに書いてあったものなんですが、これは家族の物語であり同時に寓話であるという二重の意味をこめたものだろうとも書いてあって、ふーん、と感心した。フェイブルマンズが語感良すぎて造語だと思えないもんな。造語だと自分の好きにカスタマイズできるから語感は良くなるとも考えられるけど、他者からするときめえな、ある言葉使えよと思うこともしばしば。まあまずはある言葉からになるよなあ、むしろ太り過ぎてどこが指先でどこを指してるかも分からなくなった駄肉の塊みたいな現代の言葉を疑うことが先だろと。言いたいけど後とか先とかなくて、結局一緒についでに考えるだけなのかな、語源から脈々と受け継がれてきたもの、誰かの恣意、お笑いに便利だから膨らんできた部分、懸命に捻り出された「オリジナルの言葉感」の中身、全部目の前にあるものを、気が向いたら研究してみればいいんだろう。というかそうでなければ僕はそれらと、いやなんに対しても向き合ってなどいられない。気が向いたら、というのは本当に気が向いたらやることを言う。やらないことの隠喩ではない。そんなしょーもない側面で笑うのもたまにはいいが、というかそこんとこ真面目にやるもちょけるも、その場その場でやってくしかないんだよな。といいつつもその後その前に考えずにはいられない、それが人間だからとも言いたくないし、芸術だとも思えない。僕はそうは思わない。思わないというか、わからないだけなんだけど。

7:49。乗る車両を間違えたのでやや出口までが長かったが、バイト先の店舗近くまできた。総武線各駅停車の頭の方にいればいいのか、お尻の方にいればいいのか、さらに自宅から向かうときと彼女の家から向かうときとで向きが違うからややこしすぎる。次の次くらいで頭に定着してくれればいいなと願って書いておくと、自宅からいくときはお尻、今日は彼女の家から向かったのにお尻という言葉だけが頭に残っていて特に何も考えずに乗ったらめちゃくちゃ遠かった。つまり彼女の家から向かうときは頭。これでいいはずだ。もう間違えない、たぶん。

13:38、日陰寒いて。昼休憩中でございます。何かやるべきことがある気もするが、昨日締め切りのシフトはもう提出したし、なんなら今日は休憩前の方が時間が長かったからタスクがマイナスひとつあるとさえ言える。言えないか。さっきまでちょっと寒かったんだけどな、パッと右上の、マンションの土台となっている柱の隙間から青空をのぞいたときにちょうど気付いたのだが、もう寒くない。日が出てきて日向の明るさや空の青さが際立つようになったから僕はそちらを向いたのかもしれない。うん、まったく寒くない。文句を言うとすれば目がちょっと痛い。目頭の裏あたりから、ジンジンしやがるぜ。たぶん寝不足。あとなんだろな、まあ寝れば治る類の痛みだということはわかるので、ほっといて今は書き、そしてバイトに戻り、帰って夕飯を食べて食器を洗い、風呂に入って洗濯物を干して寝よう。明日はたしか休みだったかな。今月の前半はあまりにも出勤日が少なかったが、後半も大概で7日間しかない。しかも2連勤すらあと一度しかなかったと思う。さすがに少ないな、と思って来月のシフト希望はとりあえず9日間ぶん出しておいた。7と9では字面以上にああ、バイトの忙しさへの感じ方が変わってくる。7だと少なすぎる。8だと基本的に適正で、9だとやや多いかな。でも一度乗り切ったことがあるし、まあまたやってもいいかなと思った記憶があるので大丈夫。10は未知。未知だがさすがに多いと思う。今月の後半もなんと10で出してみたのだが、なんと7日間まで削られてしまった。もっとも、休日の希望をほとんど出していなかったから仕方ない面もある、と書こうとしたが待てよ。10月後半の土日は両方一日ずつ希望出したぞ、そして土日の希望は流石に通る。平日の絞り方が明らかに変わったのだ。午前のみとか今までなかったし。うーん、一応それも見越して9日間の希望にしておいたがどうなるか。なんとなくだが数を増やせば入れる日数が増えるとも思えなかったので、本当にここなら出てもいいと思える日程を作成した。なかにはここ2ヶ月禁じ手としてきた3連勤が含まれている、希望だが。彼女の土日の予定と、あまり出勤日が集中しないように、なるべくフラットに働いてフラットに休めるように組んだ結果、一箇所だけ3連勤が生まれてしまいそうだったのでかなり悩んだが、3連勤が邪悪なわけではない、自分の身体に合うようにスケジュールを組まないのがいけない。それに3連勤はどちらかといえば甘えすぎ、負担減らしすぎ回避の意図もあって設けた。いけるときはいけるし、きついときはきつい、しかしだからといってキリがないから考えるのをやめてはいけない。最後の最後まで、自分の体調を見極めなくではならない。眠い。眠いからちょっと寝てからバイト戻る。

14:07、休憩に戻る直前のトイレ。短い時間だったがすっかり眠ってしまっていた。滴り落ちるよだれがサインの役割を担っている。10分オーバーくらいで休憩に入った気がするので、のっそり戻ってちょうどいいくらいのはずだ。今日は本も持ってきていないし、まあ帰りでガッツリ書くとしよう。2860字ちょっと。

こんばんは!バイト帰りの17:50です。快速でもう津田沼まできているのでですがいったんここ終点だったので降りて、同じホームで次の電車を待っています。今アナウンスが流れてきました、通過かい。ちょっと時間は空くのかな。しかしありがたいまである。なかなか書き出すタイミングが掴めなかったところなので。一日空いた影響かも。だいたいバイト帰りは好き放題Twitterみたり本読んだりしてたら飽きて書くかとなるのですが、今日はずっとTwitter見てたらこれ千葉駅くらいまでいけちゃうんじゃないかと不安になったところで乗っていたのが津田沼行きだったことを思い出しました。鋼の錬金術師2巻で、傷の男にエドとアルがたじろいで身動きがとれなくなったとき、ちょうど後ろの時計台がゴーンと鳴り響いて我に戻る、という一コマがあるのですがずっとその意味というかなんでそうなるのかわかりませんでした。今日のこれがきっかけというわけでもありませんが、最近は分かるようなきがします。自分ではどうにでもならないくらい、今の体勢から抜け出せなくなるときがあって、とにかくそういうときはズブズブ重さのある泥のような、石灰のような沼に腰から沈んでいくような感覚を覚えます。そこから抜け出すにはなんらかの、他者からの、もちろん人だけではありません、働きかけが必要になるわけですが、一人で家にいるときなんかそういうことがなかなか怒ってくれない。起こってくれないというとほんとだらしのないダメな奴に見えますが、うーんまあそうだからそのときは、そういうときもどこかでくるからとしか言えなくなる。そもそも体が沈みゆくタイミングでじたばたしたってドツボにハマるだけで、泥だらけでもがくとか地を這いつくばってどうとか、底なし沼にはまっててお前それ同じこと言えんの?という感じだが、多くの場合それ別に底なし沼でもなんでもないから、ほら足つけてみ?とか何で最初から準備しておかないんだマヌケが、とかそういう説教も効く時は効くんだが、役に立たないときはほんとなんもないのと一緒である。もうおまじないを用意しておくしかない、まったく同じような流れで同じような話を以前もここに書いたような気がするが、まあ言っちゃえば毎日同じことしか書いていないからなとも思えるし書くのだが、僕の場合はたぶんそれが書くこと。しか見つかっていないとか言うのはやめておこう、そんなに自分のこと悪く言わないよ。ほんで昨日なんかは一日中彼女といたわけだけど、とにかく10枚書くことを体に染みつけているときは書けない、書く余裕がない時間がないという考え方をしていたが、書く必要がなかったのだ、というのも変か、今は似たように書けない日があったとして、僕はその日を書くことなしに乗り切れているという考え方を今はしているのだ。これは僕の意識と関係ないところで起こっているようで、つらつらと今はどう、今はどうと説明することはできるのだが、この流れで行くと次はこうだな、とか、辻褄を合わせるためにはあのときこう考えていたことにしようとか、いちいち考える暇もなくこれはこういうもんだという文章が浮かんできてしまって仕方がないから書いている。それは一日の日記の流れに似ている。これからどうなるんだかさっぱりわからないまま、しかし不安は量に達せるかどうかと具体的なところに向いているから手は止まることがなく、まあ細かいところでいうと一息はさんで抜け出せなくなってやべえ書かねえとと漠然とした焦りを感じることはある。でも焦りがないとなにもできないから。いくあてもないような足取りで僕が書き切ったものを眺めて、なにかとちぐはぐで一貫して言えることなんてなにもないというか、ある時期はそれをえらく意識して書いていたくらいだし、それはヘタウマと呼ばれるものなのかもしれないが、書いているときの僕は別々のときを生きているのだしそれをそのまんま書くということだけをやっているのだから一貫したものなんて何も書いていなくて当然なのだが、一方でなにかが一つの文章どころかこれまで書いてきたすべてを貫いているように見えるときもたまにある。いやいつも見ようと思えばそれは見える。何が貫いているのかといえば、はっきり言葉にはできないがとりあえず毎日が、とは言っていい。毎日書いていること、なのか書く前にみえているものなのか、それはなぜか薄皮一枚隔てているからぼやけて見えないクリオネの心臓。わからないしそれを明かそうとして書いているわけでもないのだが、いつかはそれが色を持って音をもって、僕の前に後ろに内に間に現れるものなのだろうか。できるんだとすればきっとそれを見ようとするのではダメで、外から外から、二次的なところから辿っていくこともしつつ、でも忘れたころに僕の好きだったものを思い出す、というやり方をしなくてはいけないんじゃないのかな。うーん、わからないが、嫌でもない。

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