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それはそれで:発散の面白さ、尻すぼみの面白さ

おはようございます!今日はやや寒ですね、と。パタタタタタタとやってきます。とりあえず長らく貯めていた、というはみるタイミングは今じゃないなと後に回してきたバルサVSアラベス戦でも見ましょうかね。とりあえず後半に逆転勝利することは決まってるんで、もう流し見ですね前半は。くそ立ち上がりに失点するらしく、クンデが相当やらかしてついにアラウホと位置変えられているということで、これは今後の動向含めて注目ですね。なんにせよDAZN開く。これさーあ。デフォルトでハイライト再生なのおかしいよねえ!?パーワ、通しで見る人の我慢強さにもたれかかっちゃってるよねえ!?まあいいんだけど。きのうYouTubeでみた、無観客試合の時にマイクが拾えちゃったピッチ内でのやりとり集みたいなものの中の、ジエゴコスタに頭を蹴っ飛ばされた後のセルヒオ・ラモスが、マルセロの火星もあって相当言い争った末によくあることだろ!?と言われてたしかに、まあいいわ!(投稿主の訳によれば)と返していて気持ちがよかったので僕もそんな感じでいってみます。姿勢はガンガン真似する。ギュンドアン髪切ってる。無精髭ぎみなのは変わらず。多少のトリミングはあり。いや綺麗に決められてる。なんの引っかかりもなく。ようわからんな、クンデが終始誰にもつけていないという認識なのか。まあ初期配置としてアラウホが右だからこそイニゴクンデカンセロの心配トリオで守らなきゃいけなくなってるわけだし。

いや渋い。流し見できないけども気が滅入るような試合。循環しないパスワーク、ハマらない上に、というかだから徐々に勢いも衰えていくハイプレス、わかったような解説、何も言っていないのと同じような解説、ここでサポーターたるもの文句を言わなくてはならない、あるいはこういうときこそ見届けるのが、あるいは戦術的にフラットにみるのがどうである、全方位に嫌気が差すような。実際には停止ボタンを押して、近頃は試合を見ている時も止まっていないPCから流れる音楽だけの状態に立ち戻って、特に感想を書こうともせずこれを書く。そうすればいいだけだから、サッカーの追い方ひとつを切り取ってどう向き合えばいいかわからない、というのはタブレットの画面に常に視線を向けながら、とか試合には常に注意を向けながら、その条件の中でやり方を考えなきゃいけないという設定からしてミスっている。趣味という言葉も使わない方がいいような気がする。たかが趣味か、されど趣味かというのは趣味か本業か、自分にとって楽しいだけのことは本業ではない、それを仕事にするのは辛く苦しいことで、選ばれた人間だけが成しうることで、という話はもちろんある側面では正しいのだと思うが、俗に使われている趣味という言葉をそのまんま使って何かを説明しようとしていることが間違いといえば間違いでもある。でもいきなりメタだとか、フレームワークみたいにそれらをみようとするのにも無理があるような気がして、まず取り組むべきは、「あえて定量的に生活を見る」ということじゃないだろうか。これは方法論でも自己啓発でもなくて、ただの日記、ただの整理でただ僕への励ましに過ぎないからもし読んでいる人がいたら僕が具体的な動作を思い出しながら抽象的な言葉で文字起こししている、という風景を想像して流し読みしてもらうのがちょうどいい見方なんじゃないかと思う。直近には千葉雅也さんの勉強の哲学を読んでいるが、学問、と言うと広すぎなのかな、それをバックに指南書を書こうとするとここまでビッチリ構成を詰めて書かねばならないのかと震える。こんなところまで定義づけが必要なんだ、とか。それでいてここしつこいくらいゆっくり書き進めるな、という箇所があるかと思えば一旦読み飛ばさないといけないくらい難解な箇所もあって、ここまで丁寧に書かないとなんというか、ひとかたまりの、汎用的な思考方法を提示してはいけないのだということを同時に示しているようにも見える本だ。そして僕を読んでほえーっこんなに頭がいいのに、徐々に展開のスピードを上げていって、読み手のテンションを上げてくれるサービス精神は(ご本人もTwitterで触れていたが)漫画的だなとか、それも収束にむかうような小さいまとめ方ではなく無限に向かって発散させていきながら、それもユーモア本面へ百鬼夜行みたいに、グローバルに平面を押し広げていく展開、アイロニー方面に、坂口さんの現実脱出、レイヤー思考は主にここにあたりつつユーモアやナンセンスのスパイスもパラパラ浮いているように見えるが、とにかく出来事は、欲望は発散していくものだということを前提として、だから有限化するんだというフェーズが明確に先にあることを言葉にしてくれている、というか目に見えるようにしてくれている。ありがたいことだ。答えがない、なんてなにも言っているのと変わらない。その上であなたの私欲に満ちた考えを聞きたいのに。でもそんな偉そうなことを今の俺が言ってもな、まあ多少我慢して、賢い先生を探すしかないよな、と苦しかったり苦しくなかったりしながら流れ着く。ちゃんと流れ着いた。ちゃんと、というのはこう言う場面でこそ使われるべきだと思う。人の行動を縛りたい時に使う言葉じゃないんだよ。大丈夫、ちゃんとなんとかなるから、ロゴスだけじゃないから、レンマで世界はできているんだよ、と覚えたての言葉なんか使ってあそびながら、適当に、真面目に勉強して、自分の手で全部作っていく。じゃなきゃ暇だ。作ってない時なんて全部暇でいい。多分手塚治虫はそうしていたんじゃないか。

13:16、今日は書き始めるのも、休憩を挟んで再開するのもゆっくりめだ。1日バイトもお出かけも何もない日としては。名探偵津田を観てきた。結末はかなりあっけなくて尻すぼみの面白さがそれはそれであった。第一弾の時のサムネイルもそうだが、実際に津田が犯人はあなただ!と言っているよりも無音の静止画の方が迫力がある。脳内で勝手にいいように補正しているということなのだろうか。今回も見応えがあった。特に前編の終盤からみなみかわが合流し、互いの情報を擦り合わせていく様なんかは前回にはなかった仕掛けだし、いちいちリアクションの大きい津田とそういえばそれを当たり前だと思っていた僕達に本来の当たり前はこうだったよと思い出させてくれるようなみなみかわのマジレスも光っていた。というか津田が物語の展開にいちいち噛み付かず、場を流していこうとし始めたタイミング、つまり理沙ちゃんが死んでしまったタイミングで、僕もなんかどこかおもんなくなってしまったところがあったから不思議だった。最後にたまらなく面白かったのが廃病院の奥へ、理沙ちゃんの安否の怪しいなか向かう場面で、もちろんそこいらんやろというベタなホラーギミックもめちゃくちゃ笑ったが、やはり胸の高鳴りを伴う面白さ、と言う意味では彼女が死んでしまった時点で一つ終わってしまったような気がする。もう少しあの可憐なヒロインを見ていたかったというのもあるし、ちょっと脱落があっさりし過ぎて寂しかったというのもある。予想される津田のガチな悲しみを搾り出すような、たとえば最後に津田さんへ一通の手紙を残していたことがわかる、とか、そういうのがあったら実はあのラブコメが大好きだった僕も成仏することができたのかもしれない。ここまであまりに多くのこうだとしたら、と仮説とも呼ぶに至らないような妄想を元にガヤを飛ばしてきたが、総じていいもんみた、次も楽しみにしてます、とまとめりゃそりゃおさまった感じは出るのかもしれないが、この話をどう着地させよう、着地させなきゃいけないわけではもちろんないんだし、となるとミステリーがいちいち着地を求められるのはなんなんだろう。なんでおめーら全員の腑に落とさなきゃならんねん、こっちは俺たちが面白えもん作ってんだよ、作ってて面白いもんを、観て面白いもんでもあるけどやっぱ作って面白いもんだろ、とかキレたりするんだろうか、今回の制作陣とか金田一少年の事件簿描いた方々、原案だとか原作とか世代交代があったみたいだ、天樹征丸さん、金成陽三郎さん、作画のさとうふみやさんを僕は作者としてぼんやりイメージしていたが、彼らもそうなんだろうか。も、といったが僕は果たしてそんなんだろうか、と言ってみているけれど僕はそうだ。そうでないときもあるし、そうは思わないようにしていたり、そう思いたくないだけの時もあるが、あえてそうだと言わないと、なんというか参考にならない時がある。励みにならない時があるから、仕方なくでもあるし、現にそうしたいからと言う理由で僕はしばしばあえて言い切る。勇気を出して、びびりにびびって勇気を出して、と言うのがポイントなのだが、あるいは坂口さんの場合は恐怖心がふっとなくなって、と行動原理を説明することがあるからまた別の論理も考えてみよう。まああれか、もう独り言だからいいんだよね。もっと独り言言わないと。人の悪口を言っちゃいけないって、いや陰口を言っちゃいけないって絶対じゃないもんな。陰だろうが目の前だろうが、言わない方がいいことは言わないでいいんだよ、と思う。悪口がいけないと言うか、いかりをそのまま怒りとして、ただ心にあるおぞましさを見かけだけ整えて、怒りのまま外に出しちゃうからいけないんだと僕は思うわけですな。めっちゃいっぱい暗号書けばいいよ。一つ取り上げてたらキリがないくらいにさ、こいつのことなんか気にしてたってしょうがないって思われるくらいにさ、したら見かけだけだけど、構造としては同じ、他人のこと(少なくとも僕と彼の一対一、つまりこちらから見える範囲においては)を気にしてたって仕方がないを作り出すことができる。相手を救おうとしなければ、まずはそれでいい。ずっとそれでいい、ということも多いのだろう。

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