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ヘッドホン、インスト/飽きない、でも切る、で歌う

おはようございます!君の知らない物語を聴きたすぎて起床。イヤホンを彼女の家に置いてきてしまったし、父親と寝室は繋がってるしで寒いけど起き上がってパソコンで聴くことにした。そういえば目の前に父のか妹のわからない、しかし以前父が一度だけ使っていてそれ以降つけてるのを見ていないヘッドホンが置いてある。ハードケースの上に、剥き出しで。使ってみるか。Soundcore Life Q30というやつみたいだ。なんとかブルートゥースでパソコンと繋ぐことができた。もう一度君の知らない物語を流してみると、音は普通だった。あまり普段使っているSOUND PEATS TrueFree2というイヤホンと変わらない気がする。というかそのまんま同じな気さえしてくる。装着部の感触は確かに大きく違って、埃が溜まると耳の穴が痒くなるのはもちろんヘッドホンにはないし、今こうして10分弱つけているともっさりした暖かさに耳が覆われることは、イヤホンではない。いや、じわじわいい気もしてきた。君の知らない物語は名曲すぎて何で聴いても無限の広がりを感じる、というか無限の広がりを演出する方向にすごさを伸ばした曲、と言えるかもしれない。直後に流れた知らん曲を少し聴いて、そう思い始めた。次にadieuの天使を聴いた。些細な音の高低で魅せる曲にハマるのかもしれない、このヘッドホンは。まあしばらくイヤホンでうたを聴いていなかったというのもあるはずだけど。穴あきの空はインストが最高すぎて、インストを聴く喜び、いや歓び、悦びを布教するためだけではなく、それを多分にはみだして、大学の友人に向けたおすすめリストに入れた。穴あきの空、インストのほうがヤバさが際立つ気がしていたのだが今聴いたら声ありも素晴らしかったな。これはこのヘッドホンで聴いて初めて気がついたかもしれない。何よろフォルムがいいよね。音楽を趣味にするという字面の意味が僕はずっとわからなかったのだが、こうやって趣味としての見栄えを確保していてモチベーションを確保することも兼ねているのかな。今僕は、音楽を何として見ているだろう。たぶんあまり、書くことや読むこと、家事をすることとの区別はない。ただ出番は大きく違う。

ふうー。きょうはちょっと、充実してんだしてないんだかわからないが、とにかくティアキンのサウンドに埋もれていた。どうしても最終決戦とラストキャッチのBGM、気の利きすぎる青沼さん(?)が設ける粋な強制アクションの数々が頭をよぎってしまって何も手につかなかったので、まあ手につけようと試したわけではないのだが、今日みたいにバイトもなんもなくゆったりとしたペースで1日を組み立てられるような日には、思いついたことを片っ端から、まだ練習中なので少しのラグはあるけれど直ぐに始める、温存なんかしない、あとに労働が控えているわけでもない、飯を食い風呂に浸かり22時には寝れば9割がた何があっても回復する。それに、世界は可変的なのだ。保坂和志さんがどこかでいっていた、鉄の胡蝶がなんとやらという新聞連載なのかな、あの人をTwitterでフォローしているわけではないのだがよくおすすめに流れてくる。よく、というほどでもないか。3度くらい流れてきたことがるのだが、その中で読んでとびきり印象に残っているのがこの言葉だ。世界は可変的であると。書きたいものを全て書き切った今日、書き切らず後で書こうと置いておいた今日、のちに迎える明日が同じであるとなぜ言える?とそんな言い方はしていなかったと思うが、何にせよピンときた。どこかでそう言って欲しかったのかもしれない。完成とはなにか、完成させるまでやることを「書き切る」ことだとすると、どこまでいったらそうなのか、答えはないのではないか。飽きたらやめればいい。飽きるまではやる。でも飽きないでもやめなきゃいけないときが躁鬱人にはある。過剰。過剰は、自分の目でみてみないとわからない。自意識過剰という言葉があるが、誰にそれがわかるのだろう。明日の自分か?ならば明日の、その時の自分を見ればいいだろう。昨日の自分はもはや自分ではない。他人から人の自意識がどうかなんて、ましてや過剰かどうかなんて、もうこの後にどんな言葉をくっつけたってそれが過剰だとわかるくらい当たり前のことである。目につくだけだろう、あんたの。目についたものを、相手本位に近づけるつもりで言葉を紡いだことがないのか?ないのだろうと言い切りたいが、あいにく僕にもわからない。同じように見えなくもない。厄介だが、身を隠すにのは適している。昨日の文も、今日の文も、僕はいいものだと思わない。なぜか直近3日分のものしか読めない、多分恥ずかしいから、というか決定的に違う書き方がなされていて鼻につくから、そういう無意識的な施錠の存在を僕はたまに感ずることになるのだが、昨日と今日は、もう少し前、具体的には1日休憩を挟む前の方がいい文章を書けていたなと思いながら、まあ書くか、と4000字を目指している。不思議なことに、何かの保存法則が働いているのか、書くこと以外の調子はすこぶる良い。書くこと、というかここでまとまった量を書くこと以外のということだが。まず絵が良い。絵を描きたいとも思って描いて、描き終えたときにイメージ通りに描けているわけでもないのだが、というかここ二日間は事前にイメージするのなんてやめよう、とりあえず線をひこう、黒を出そうとカスカスの筆ペンを走らせていたら、なんか「存在」そのものと僕は呼びたくなるような絵が描けた。絵というか、今朝冷蔵庫の前でないをしているときだか忘れたが、漫画だと思った。黒の模様の組み合わせだけで何かを作り、ベタをいれて存在を確かなものとし、コマに当てはめて物語を始める。もっとも、たいていの漫画家はコマ割りから先に書くんだろうけど、でもそれペン入れというか本原稿を描いているときだけなのかな。ネームの時は人から先に書いたりするのかな、まああまりしないのかな。僕がいろんなことをこのまま練習していって、なにか職業を名乗らねばならなくなった時に僕は何といいたいだろう、とそこそこの頻度で考えていたのだが、それが漫画家であるというのはいつのまにか前提条件であるかのように話が進み始めた近日である。でも毎度のこと、じゃあ漫画こそ毎日描いて練習しないとね、と基礎的な技術から、バスケットボールでいうハンドリング、サッカーで言うと今時もうリフティングではないのだろうが、漫画でいうとデッサンであると作家は言い、編集者は(と言うか少年ジャンプの編集部公式Twitterアカウントは)漫画をよく読み、漫画をたくさん完成させることであるという。僕は後者の考え方の方が好きなのでそうしている、と言おうとして、いや作家のほうもそういえばジャンプで連載している先生がたがやっとけばよかったこと、と言う形式で述べていたものだったか、だとすると漫画を書くなんてことは毎日たらふくやっているわけだし、あえて言わないか、多分描きあぐねている読者に対しては言った方が親切だろうが、毎日それに囲まれている方からすれば自動的に選択肢外に追いやられると言うか、なんかもうカップラーメンとかエアコンの匂いとか、慢性的な腰痛とか、なにが原因で何が手段で何が面白いのか錯綜してしまっている空間の中で、隙間時間で答え考えといてください、と言われてどれだけめんどくせえ仕事持ってきやがってくそったれと思おうが、人と同じこと言ったってしゃーないよな、と思うならなおさらだろうか、いやこちらに寄ってくることもあるだろうか、でも、言わないよな。漫画いっぱい描けって。これは想像というか空想だが。何の根拠もない。僕の思うリアリティを、そのまま描き起こせるわけでもなく、でもそれが別に悪いことであるわけでもなく、ただややこしく、でも確かに楽しい方向へ、自然と視線の向かう方向へ歩きながら書いている。結局作家の言うことを聞いた方がいい、編集者の言うことを聞いた方が客観的だ、借金している時は普通に借金している奴としか喋りたくない、とかそういうわけではないのだろう。ならば質問などするな、ということでもあるのだろうか。確認など取るな、勝手にやれと。そういうことでもあるのだろう。可能ですかと聞かれて何について、誰に対してなら不可能ですと言えるのか。可能です、やってみてください。その際、続かないと意味がないようで、別に飽きたらやめたらいいだけなので、怪我はしてもいいですが病気には気をつけて、気をつけてと言うのは飽きたらちゃんとやめろよってことで、ちゃんとって言葉はこう言う時にしか使わなくていいから、ちゃんとがすぐに、だから。とりあえずはやる、だから。飽きないなあ。この章が飽きなくて困る。今日はちなみに段落ではなく章と読んでみている。段落ってちょっとださいんだけど、なんて言えばいいのかわからないんだよな。言葉の塊、文字の塊と読んでみたりもするが、そう呼ぶにふさわしくない見た目をしてる時もあるんだよ。なんか凛々しい感じの、よそ行きの襟付きシャツを着たような文章を書く時が僕にもあって、そういうときはお堅い言葉を使いたいわけ。学問的に認められている、すでにある言葉を。でもわかんないからさ、小学校で習った段落って言葉使ってんの。ウケ。それはそうと、一つ最後にメモっときたい言葉があるんだよ。今日どう書いていこうか色々案があって、ひとつはいくつか思いついたメモ向きの言葉たちをここに羅列してみる。以前試して見てうまくいかなかったんだけど、その時のうまくいかなさと言うのは、最後までその形式で4000字にもっていこうとしてたんだよ。馬鹿だよねえ、とかそんなふうに自分を悪く言わないよ、と声をかけつつ、そうじゃなくてもいいんだもんね、だって。この前なんか最初の1500字だけ小説で、残りがほとんど関係のないただの日記だったりしたよ。どんだけ同じことを同じ形で描き続けるのが苦手なんだよ。まあそう言うふうに体はできていないから、それでもそう書きたい人は踏ん張るし、書きたくない人はすいーっとどっかいっちゃって、そこからほんとにどっかいっちゃうか、書くか。たまにほんとにどっかいっちゃったけど歩きながら書いてたりとかその先で書いてたりとかする人もいて、その人が本にしといてくれれば、どこにいったか見当もつかなかったはずの人のことをまるで命を救ってくれた師匠みたいに勘違いしてしまうこともある。心強い方の勘違いで、信ずるに値する方のしてしまう。あー、飽きねー。飽きてきたけどまだ書けそう。しかし残念ながらと言うべきか、僕は4000字でぶった斬ってさっさと完成させる練習にも毎日勤しんでいるんだ。すると何が起こるかって言うと、僕の顔についている目で見ることができるような、つまり身近なひとだね、あの人たちとたくさん話せるようになるんだよ。これも素晴らしいことだ。僕のやっていることはスケールが小さいんだけど、なんかこう、密度がぎっしりなんだよね。とかいうと量より質だと言っているようで怪しいんだけど、まあそういうときもあるんだろうし、今僕は細胞を拡大して見た時のことを想像しているんだけど、そうもちろん中学校の理科の教科書で、高校の生物の教科書で見たあの写真をもとにして、で、ここからが僕流というか柳田国男の区別するところの空想なんだけど、ぎっしりしたものを拡大したらすかすかに見えんのかと思ったら、またぎっしりがあるんだよね。細胞をぐーっと拡大してみていくと。僕の得意な縮減的ユーモアの世界と、やっていることのスケールの小ささ、相応の組み合わせにぱっと見思えるけど実は相容れないものだったらどうしようと不安になって、最後に理屈をひとつこしらえてみた。適当でちゃっちゃっと作ったものだけど、ちゃんと考えた。僕の頭で想像してから、空想した。そういえば最後に書きたいことってなんだったっけ。今のは違ったんだよね、当初の予定からすると。言語化って言葉が僕はしっくりきていなくて、しっくりきていないうちは一旦離れてみようと思って別の言葉をまた急造で、かはわからないな急にパッと色がついて見えるようになっただけで、でもまさにそんな感じで、言葉になる前から全部言語にしかみえないんだよな。色がつくとか、空気に触れて匂いが変わるとか僕が勝手に見ないようにしていたからとか、あるいは興味がなかった、これからもないだけで、あるにはあるから、言語と言えば言語だよな、みたいな。だからなんて呼ぼうか考えてて、この前文字化って言って見たんだけどハッシュダグで検索かけたら数件ヒットしたからなんかがっかりして、そういえばダサいな元から、とか思うようになっちゃったから縁がなかったと割り切ることにした。で、なんだっけ。まずい。歌のタイトルが出てこない。僕が毎日更新しているツイートなかで一度その対策を打ち出したんだけど、地道に頭から歌っていけばCメロくらいには出る。歌ってみよう。

言語化 言語化 しっくりこない
まるでもともと そうじゃない みたい
全部言語 いや待った
全部っつったらそりゃ雑で いや待て今はこれじゃない

言語化 言語化 しっくりこない
いい案 冷蔵庫 なにしてた 覚えてない
覚えてないから歌ってる
そろそろ二番も終わっちゃう

言語化 言語化 しっくりこない
理論化?無論か?はっきりしない
はっきりしなくて歌ってる

(Evernote開く ここに書いてあることもある)
(書いてない、メモに書いてない)
(残念だ)

残念ながら、ラップパートまで歌っても出てきませんでした。立証失敗です。言い訳をしますが、今探していたのは曲のタイトルではありませんでした。そりゃ仕方ない、しかし

ここで思い出す 意味化である
こう見るとひどく頼りない
けど言語化より俺の口に合いそう
意味化意味化 語呂悪い
語呂悪いからつかわれない?
語呂 大事なこと
ゴロ 大地の音
わら また明日も書く

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