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吹けば飛ぶような、当たれば砕けるような

おはようございます!はあだるいけど書く。書き始めはだるい。書き始めというか書き出すまでがだるい。逆に言えばそこだけがだるいので書き出して仕舞えばいいとわかるのだが、やらない。もっと楽なものがあるから。しかしそれが楽しいのは限らない。危ない時はすぐに楽な方向へ、でもずっとそれでいいわけではない、いいわけではないというのは良し悪しの話ではなく、体調の話である。そうせざるを得ないということ。目まぐるしく変わっていかなければ息ができなくなる、追い詰められれば逃げるしかない、ただ逃げてばかりではジリ貧である。これはバランス、とか適度に、とかそういう話ではない気がする。僕にはそういう話ができない。適度やバランスを語れるだけの情報が足りていないからだ。もちろんそれらは絶望的なくらい、ひとりひとり違う形のものを持っているのだろうから、僕の適度は僕にしか知りようのないものだ。この問題のつかみどころを難しくしているのが、逃げるだけではいけないというのはつまり苦しみへの予防策でありながら、具体的にできることといえば細かな苦しさへの対処、たゆまぬ対処であるということだ。つまり後手を踏んでいる。しかし苦しさを感じるには苦しさが多少なりとも生じていなければならないわけで、まあこうやって文にしてみると当たり前なのだが、このジレンマが人に「ではキリがないではないか、始めから考えても仕方のないことで、それに抗う術なんて探すだけ労力の無駄だろう」と錯覚させる要因であると考えている。

新宿からの総武線各駅、全然座れねえじゃん!とこの時間の千葉から出る電車と比較してびっくりしていたら、飯田橋で7割くらい降りて行った。オフィスがいっぱいあるのかな、その辺の事情には全くもって明るくないから。ともあれ、10分ちょっとは座っていられそうで安心した。さすがに1秒も座れず、しかし文章は進めておきたいからとずっと書いていたら大変だった。なんとかなるんだとしても、ここまでして大変なことと大変なことを並行して行う必要はあるのかと、座れないなら書く方をやめてしまっていただろうと思う。眠い、目を閉じたいタイプの眠さ。閉じようかな、前2日の感覚を流用すれば、一発目の眠気は無視。とりあえず書き続けて、文量が2000字程度までたまってきたら眠気に向き合い始める、たいていはそのタイミングが船橋駅到着時なのだが、今日は逆方向から乗ってきたのでいまいち感覚がつかめない。そもそも新宿からのほうが全体としてかかる時間が5分ほど短いはずなので、二日間電車内で書いてきた文量をノルマとしてみるならば寝ている暇はないのだが、どうやら目を閉じたほうが気持ちがよさそうなので目を閉じてみる。

よし両国。もうちょっとだけ時間がある。いったん目を閉じるのに選んだタイミングはなかなか良いものだったようだ。このくらいの眠気ならバイトをしていれば勝手に吹き飛ぶ、といいたいところだがそんなに劇的な消え方はせず、体内が空気中か、どこかに馴染んで忘れていくような感覚。眠気がくるときもそんな感じだ。どこからともなく、急に眠くなるわけではないが、その割にはどうしようもなくまぶたが重かったりする。なんだこれは、と抗おうとするほど負荷は高まるが、ま、別に寝てもいいんすけどね、と何かを読んだり退屈なことをするのをやめて、自分のうちから吐き出していく作業にスッと切り替えると眠くなくなることが多い。気がする。

バイト先の最寄駅に到着。7:39。Yahoo!乗換案内に出てくる各駅停車よりは一本早いものに乗れることが多いのだが、珍しく今日は小走りでいかなければ間に合わなかったので提案されている通りの電車に乗ってきた。もともと余裕のある時間の電車を選んでおいてよかった。一本早いものに乗れることを見越してギリギリの時間設定にすると、そういう時に限って電車が遅れたり信号によく引っかかる。困っているおばあちゃんだって本当に現れそうな気がしてくる。そんな時おばあちゃんを助けて、真っ先に疑われる理由をでもそうなんですと高らかに謳うために、いつも早めにきておく。もっともギリギリのものを選んでいる時はやむをえず、もう最寄駅からダッシュし続けて汗だくで1日を過ごす覚悟をもってはいるのだが、僕の気持ちが前向きだということだけでは対処できないこともある。だから早めに店舗について、出勤カードだけ最速で切って、退勤は粘らず早めに切る。すると残業代がスッと出る。想像だが。

録音しているのを忘れて、スマホをポケットに入れながら指でリズミカルに叩いていた。これはやっぱり後から聞くとうるさいのだろうか。出勤カードを切っていつも通りトイレに入る、いやいつもは逆か順番が。昨日出勤くらい早く切ってもバチは当たらないよなと思ったので今日は先に出勤証明をして荷物を置いてから、手ぶらでトイレに入った。ズボンを下ろしたところでそろそろかなの録音アプリを開いたら、10分まで残り10秒ほど残っており、それが終わるまで屁を我慢した。秋山竜次がラジオで、リスナーから生活音を収集する企画をやっていたのだが、そこでうんこを踏ん張ってチャポン、まで録音されているのを聴いて割と嫌がっていたのを見たからかもしれない。

10:25書く。ちなみに眠い。眠いをだるいに見間違える前に書き始めました。このまえサウンドクラウドでこの前みつけたPOD kotonohaという人の音楽を聴いています。ラップ調の曲あんまり得意じゃないんですがなにやらこれは心地いい。怒りに支配されていない感じがする、ビートっていうのかな、その調子も穏やかだし静かだけどカッコいい。歌詞は全然聞き取れないというか耳には入ってるんだけど文章としては頭のなかに立ち上がらないという感覚で、それって僕にとってはすごくありがたい、頭の中でも目に入った、耳に入った文章のままだといくら量がコンパクトだろうと覚えていられない、途中で退屈になってしまう。でもたとえば村上春樹の小説とかは文字がそのまんまスキャンされて脳のフィルムに焼きつく感じではなくて、一度目にした文を纏っている含みというか示唆が、直接関わりそうな僕の過去の記憶やら、誰のものかわからないイメージの中を一度通り抜けて、僕だけのさらなるイメージを纏って頭の中にやってくる、そのままでは部品、プラモデルを作るとしてどの部位に当たるのかもわからないまばらな形の物体。それを自分の手で組み立てるような作業を求められるんですね、というか読んでいてそんな気がするんです村上春樹の文章は。この人の曲にはそういうのを感じるのかよくわからないですが、でもスーッと滞りなく楽に聞くことができます。文章以上に音楽の聴き方はよくわからないので技術的にどう聞こえるように工夫されている、みたいなことは一つも言えませんが、とにかく耳心地が良くて、ノリノリでリズムに乗って体を跳ねさせなくとも、直立不動で楽しめるような感じがします。でも心の中はもちろんざわめいています。

聴きながら目を閉じていたら寝そうです。今日はまだ3000字も書けていないなあ、いつもと似たようなペースで書いているつもりなんだけど、まあなんとかなるか。音はもう録ってる、絵も帰って飯を食って親父を風呂に入れて、いつも食器洗いかな?乾燥機のタオルをしまう作業かな?に終始して何もできた感じがしないあの時間にサクッと書きたいな。でも親父風呂入るの早いんだよな。毎回もう!?ってなってる気がします。アーティストが変わって急に音量が上がりました。やまだなんとかって人みたいです。引越しのバイトをやっていたときにお世話になったなんていうんだ、人事部みたいな方も同じ苗字で同じような声だったのでドキッとしました。引越しは結局フェードアウトしてやめたから。まだ正式にはやめてないんだけど、でももう入らないな。たまに今のバイトでしんどかったときとか、ふと風呂入ってるときとかに「いや待て、引越しに一切入らなくていいということその一点で、すべてはうまくいっていると言ってもいいんじゃないか」みたいな仰々しい感じのことを思ったりするんでほんとに嫌なんだと思います。

今聴いてる奴はめちゃくちゃ言葉のまま入ってくるな。こっちのほうがよさそうで途中でくどくなってくるんですよね。ライムを心に響かせたい、という想いが伝わってくるのが苦手なのかもしれません。ただそういう強い気持ちをずっと受け止めてはいられないというのは、そもそも体の反応として自然な気もします。その点で言えばさっきのPODさんはアンビエントとかジャズに近いというか、こんなこといったら意図に反したりシンプルに失礼かもしれないんですが練りに練ったメッセージみたいな雰囲気を感じないんですよね。まず自分が聴いていて気持ちのいいサウンドがあって、そこに自分のイメージをのせているだけというか、だから言葉はただの乗り物でしかなくて吹けば飛ぶような、当たれば砕けるような、だからこそ僕に触れる時それはパキッと音を立ててもとの形は崩れて、だからこそいちいち体にぶつかるような不快感、といったらあれですが引っ掛かりなしにこちらに入ってくる、そしてこの流れで入ったきたものであれば、今度はぼくが考える時間ができる。ただ受け取って、その余韻を感じるというフェーズ分けではない。すべては同時に行われる、ぼくは今聴いている、と同時に考えている、聴いている以前に僕が考えているようなきもしてくる、言葉は一つも入ってきていないような気がしてくる、ただそれが心地いい、そんな感じ。

よし、なんとか4000字手前まで書くことに成功。10:59なのでもう戻らないといけない。戻る前に至福のトイレにこもっている。これがないと締まらないし何も始まらないんだな、今日はここまで、あっくんに提出。

立ちがき

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